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───しまった、と裕生は眉を寄せた。
前から三番目の中央の席で、板書されていく数式と睨み合っていたが、全く暗号のようである。
中退してこっち、学なんて得る余裕も時間も金もなかったせいか、裕生は現代数学が到底理解出来ないものと悟った。
(ぜんっぜん分からない。なんだコレ必要か?)
それでもあの頃は二十年以上生きていけたが、今がこれでは先々やっていけないかもしれない。生活費の為に働くか本を読むくらいしかしていなかった。
生きられはするが、安定はないだろう。
数学、社会、歴史、科学、現代文学。学業で得られるものはほぼ忘れているうえに世離れしていたせいか、裕生の頭はもう要領を越えていた。
何しろ他の事でもう一杯だったのだ。
あの"天"と名乗った男の話を百パーセント信じているわけではなかったが、あれから一週間を過ぎて、その間に身の回りの観察によって得た情報と"天"の話をノートに書き出し見比べてみると、投げ出したくなるほど辻褄が合ってしまった。
むしろそれ以外の説明も、また"天"の話を真っ向否定するにも難しかったのである。
一先ず、裕生は自分が生きているこの世界については"天"の言う【別次元】であると認め、とにかくこの【B次元】での新しい生活に慣れる他に先のことなど考える余裕は作れまい、と大人しく通学する事に決めていた。
だが別の弊害はここにあったようだ。
ノートに写した板書の法則説明は殆どが口頭で、ただ写しただけではさっぱりだった。教師の言葉に耳を傾け、重要な文を書き込んで理解し、初めてその方程式が更に応用にも使えるようになる。
あの頃、自分が通う高校の偏差値を意識した事はなかった。今の自分が学に弱くなっただけと思いたい。
ふと斜め前の背中に視線が向く。そこには聡が難しい顔をしながらノートと黒板とを見比べている。
そういえば、確か聡は数学がまあまあ出来ていなかったか。こっちの聡はどうだろうか。
シャープペンシルの先端を顎に当てながら、裕生はぼんやりと背中を眺めていたが、ハッと我に返りまた追加された板書をノートに書き込んだ。
*
休み時間になると、裕生は力尽きたように机に伏せた聡に近付いた。
「聡……どうしたの」
「暗号解読に疲弊しました」
「ふ…っ、聡は数学苦手だっけ」
「笑うなよー…数学は天敵」
体を上げた聡は数学のノートで自分の首もとを扇ぎながら、じろりと裕生を睨み付け、直後に相好を崩した。
裕生は聡に授業内容について問おうと思っていたが、"こちら"の聡は数学が敵と見なすほど苦手だと知って、これは教師に聞くしかないなと早々に諦めた。
「裕は?今の授業分かったか」
「全然。後で先生に聞きに行こうかなって」
「うわあ…真面目だなあ」
「聡は聞かないの」
「呉越同舟は勘弁」
「ふふ、数学は聡を敵とは思ってないんじゃない?」
「いやぁ、オレは藤本に共感するね。分け隔てない敵意を感じる」
「三池ぇ…同士よ」
話を聞いてたのか、クラスメイトの男子が聡の肩に腕を回して頷いた。それから二人は数学の敵意について議論していたが、いつの間にか話題は裕生を巻き込みながら、勉学よりも世間話に移行していったのだった。
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