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 男は茫然とする裕生を見下ろしたまま、胡座を崩して片膝を立てながら言う。

 ───芦屋裕生は、この先死ぬまで【B次元】の人間になった。【A次元】で裕生が好いていた人間もいるが、ここではその心を否定されない。
 ただ、裕生自身がそうであるように、裕生が好きだった【A次元】の想い人がこちら側でもまた好きになるような人間かどうかは分からない。それは偏に、ここが過去ではなく、そして彼らが別人であるから。


「今お前にある過去の記憶は、こっちの芦屋裕生にとって前世の記憶みたいなもんだが、実際それは【B次元】の芦屋裕生が目覚める少し前の【A次元】での出来事だ。
ここで生きていけば自然と上書きされて消えていく」
「そう、なのか…」
「当たり前だろ。いつまでも残ってたら脳が痛む」


 男が言うに、魂の生まれ変わりは本来、通常であればそれまでの記憶を抹消して行われる。前世の記憶というのはその次元で生きた魂のものしか残らず、別次元の魂は例え同じだとしても中身は別なのだという。


「そんなモンいちいち引き継いでたら輪廻転生は出来ない。不死と同じで脳にダメージが入る」


 大人になるにつれ幼い頃の記憶が薄くなっていくのは、脳の負担を減らすため。完全記憶の特殊な能力を持ち得る人間も存在するが、大抵何かひとつ飛び抜けて秀でた能力を持つ人間には欠陥が多くある。それもまた負担軽減のためだと男は言った。
 完璧はない、と断言した男に裕生は怪訝な目を向けた。


「じゃああんたは一体なんなんだ?」
「俺か? あー…お前らが言うところの"天"ってやつだな」
「は?」
「カミサマってやつ? まあカミサマなんてそこら中にいるけどな」


 自らを"天"と言う男の存在は裕生にとって益々胡乱な者となったが、突如として現れ裕生の疑問を次々と明らかにしていく様は、口や態度は悪いが神と言われても不思議ではない。
 "天"は思い出したように言った。


「ああ、それから、今は会話できるが、上書きが進んだら俺の姿も声も忘れるから安心しな」
「いや…」


 他の人間には認識出来ない存在のようだが、確かにそれと対話する所を見られたら裕生は独り言の激しい人間と見なされて、こちらが不審者扱いされかねない。


「お前にコレをやったのは、単に面白そうだったからだ。
元々こっちの芦屋裕生には前世の記憶が少しあってな、死んだお前の記憶四十年分と交換したんだ。別の存在とはいえここの芦屋裕生の魂は質が同じだから、面倒もねぇしな」


 自身の娯楽の為に人間の魂や記憶を使うなどというのは、正に天にしか成し得ないような所業ではある。しかしそんな気紛れで自分が存在しているのかと思うと、裕生は些か罪悪感を抱いた。


「記憶があるうちは、お前にとってただの人生やり直しチャンスってわけだ。
AとBの己を二人分幸せにするかしないかはお前次第だが、まあ、上手く使えよ」


 その後の事は関与しない、とあからさまに示した"天"に、裕生はそんな投げ遣りなと言おうと口を開いたが、瞬きの刹那には既に男の姿は消えていた。


「……なんだったんだ」


 床にへたりこんだままの裕生は、玄関の扉が開く音で我に返った。そして反射的に見上げた壁掛け時計は、裕生が帰ってから既に二時間が過ぎていた。


 


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あきゅろす。
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