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『天』
 


 聡に家まで送ってもらった裕生は、自室のある二階まで覚束無い足取りで上がり、室内に入ってすぐにベッドに倒れ込んだ。
 制服にシワがつくかもしれないと頭では気掛かりになったが、それでも体は脱力していて動けそうにない。
 思考の渦で頭が破裂しそうだった。


 ブレザーのポケットから携帯端末を引っ張り出して点けると、ロック画面が表示され、そこにはいくら見つめても変化のない年月日が出ている。
 時刻は夕方だったが、何度考えても紛れもなく裕生が入水したその日で、海の中での苦しみも痛みもはっきり覚えていた。
 裕生は四十だった。高校二年の中頃までの人生とその後の将来を泡に変え、それから二十三年を強迫観念で生き続けた記憶が確かに残っている。

 けれども今の裕生は高校二年の姿をして、過去に戻ったわけでも来世でもない現在に生きている。
 高校生当時のままの両親に親友の姿と通学路や校舎、しかし見覚えのない生徒や教職員。あの時は建設中だったはずの商業施設は既に完成して三年経っていた。
 そして目覚めてからずっと引っ掛かっている何か。明かされない違和に靄(もや)が濃くなる。


 暗くなった画面に自分の消沈した顔が映り、裕生は放心した状態でそれを見つめ───跳ね上がるように体を起こした。


 焦るあまりにベッドから落ちたが、よろけながら全身鏡に向かいそれを両手で掴んで自分の顔を凝視した。あら探しをするように視線を巡らせ、一点で止まる。
 そこは耳だった。
 裕生の耳朶には黒子がある。ピアスのように見えるそれは、大きくはないが特徴的な存在である。
 鏡に映った裕生の「左耳」にそれはあった。黒い点は触っても取れない。しかし四十年を生きて裕生が見慣れた自身の耳の黒子は、「右」についていたはずだ。
 暑くもないのに汗が滲んだ。鼓動が早く波打ち、冷えた汗が腕に落ちた。


 裕生は記憶の中を辿り、二十三年前の親友の姿を思い出す。その姿ははっきりと蘇り、少し吊り気味な目に合わない柔和な声までも鮮明に浮かぶ。ストレートの暗い茶髪もあの時と同じように、つい先程まで一緒にいた親友と一致する。
 けれども違いはあったのだ。裕生と同じように、位置の異なる「反転した黒子」がある。
 思い出の中にいる聡の顔は、嫌悪と憎悪に満たされている。しかしその顔の左眉の端にある黒い点もちゃんと覚えている。
 「ここ」にいる聡の黒子は、右側だ。


 どこかが違っている。
 しかしそれがわかったところで、この過去でも来世でもない「今」は、一体どこなんだ。
 へたりこんだ裕生の目は、鏡の中の自分ではなく、力なく垂れた手を凝視していた。


「そんなとこでなにしてんだ?」
「───…っ!?」


 


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あきゅろす。
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