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 身を投げた時は明確に記憶にある。最後に確認した時間は今より二時間程前の明け方だった。遺書で最後の行に残した記載記録は、2030年5月29日である。
 間違いようがない。確かにこの目で見て、この手で書き残した。
 体の熱が上がっていた。じわりと滲んだ汗と小刻みな呼吸。握り締めた端末と、懐かしさのある自分の手。
 どういうことだ。
 一体なにが起こったんだ。過去に戻ったなら、年月日時も二十三年前でなければ辻褄が合わない。何故そのままなんだ。
 現状の裕生にとって、自分の居場所以外は分からないことだらけだった。



「───裕ちゃん、どうしたの?」
「!」


 答えの見えない疑問ばかりが渦巻いて座り込んでいた背後から、女性の声が聞こえて裕生は跳ねるように振り返り、手にした端末を落とした。
 扉の前には、裕生と同じで緩やかにうねる髪を横に結った女性が、心配そうに様子を伺っていた。


「……母さん、」
「なあに、どうしたの、具合悪い?サトちゃんが裕生の様子が変って言ってて、」


 当然のように返事をした母に、裕生の顔は歪み、鼻の奥がツンと傷んだ。
 温かい雰囲気だった。ずっとそうだったはずなのに、裕生が記憶する最後に見た母は、実の息子を汚物を見る冷めきった目でその存在を拒絶し、否定した。
 けれど今目の前にいる母はそんな事など無かったように、息子を愛する暖かく優しい母だった。
 裕生が呆けていると、母は慌てて裕生に駆け寄って来る。


「どうして泣いてるの、何かあったの」


 柔らかな温もりの指が裕生の頬を撫でた。涙が流れたことをそこで知った裕生は、服で目を拭って上擦りながら言った。


「っ大丈夫、ちょっと、嫌な夢を見ただけで……夢現になってたんだ」
「本当に、嘘じゃない?」
「うん、すぐ支度するよ」
「そう…何かあるならちゃんと教えてね」
「大丈夫。ありがとう」


 母は後ろ髪を引かれる様子だったが、裕生が笑みを見せると緩慢に部屋から出た。近場のティシューを毟り取り鼻をかんだ裕生は、目を閉じて数度の深呼吸に次いで着替えを始めた。


 疑問は疑問のままだったが、いつまでもここで頭を抱えていても答えは出てこない気がした。まずは外をこの目で見なければならない。記憶にある過去と今に違いがあるのか、ここはどこなのか、自分は本当に死んだのか。
 それ以外にも色々と気になることはあるが、とにかく今は埋められる所から回答用紙を埋めなければ進まないだろう。

 あの低い声の正体もわかるだろうか、と裕生はネクタイを結びながら考えた。
 あれは誰なのか。まったく聞き覚えのない声だった。記憶力には自信があるのに。
 裕生は部屋に置いてある細長い姿見の前に立った。幼さの残る、母親に似た顔立ちは弱々しいが、その目は真っ直ぐに自分と目を合わせていた。
 ふと、そこで自分の耳に視線が飛んだ。左の耳朶に黒子がある。ピアスのように小さく存在するそれに、裕生は僅かな違和感を覚えたが、結局それも解消されなかった。


 


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