短編集2(2020~) 2 纏まりのない断片的な話でも、隣の男は真剣な顔で耳を傾けてくれた。いつの間にかカクテルの中身は色を変えて、三杯目の新しい鮮やかな液体になっていた。 「───つらいね」 脈絡も曖昧で雑な内容だった、と思う。それまで自分がどんな話をしたのかもよく覚えていない。 しかし男は柔らかなまま、小さくそう言った。 誰もがそう言うだろうし、それ以外に言葉など見つけられない事の方が多いものだとはわかっていた。それでも名前すら知らない男が放った短い一言が、ひび割れに留まっていた心の中の何かを完全に割ったような気がした。 男の細い指が目尻から頬を撫でた時、自分が涙を流しているのだと自覚したのだ。心のどこかでずっと、泣いたら負けだと思っていた。自分は辛いのだと認めたくない。辛くない、これはまだ自分が未熟だからだと言い聞かせてきた。 男は微笑みを保ったまま言った。 「そうなってまで居残るだけの価値がその会社にあるの?」 「え?」 唐突な言葉だった。その時は何を言っているのか理解出来ずに、呆気に取られて答えられない俺を男はただ見つめてくる。 「自分の価値を下げるためだけの会社で、人生を潰される代わりになるものは、その価値があるものは、そこには無いよ」 言い聞かせるような口調ではないが、ただゆっくりと滑り落ちる声は淡々としていた。それでいて確信を持った隙のない言葉で、こちらからの否定を完全に遮断している。 「もっと上手く、もっと穏やかに生きられるよ。選択肢はそこらじゅうにある。ただ視野が狭くなっているだけなんだ。会社という塀の中で、腕しか通せない換気用の小窓からは、外の世界なんてろくに見えやしないからね」 「……」 彼は何を言っているのだ。 男は中身を飲み干したグラスを横に倒した形で、底をこちらに向けた。望遠鏡か虫眼鏡のように片目にグラスを翳している。 目を開けているかどうかをやっと確認出来るくらいのガラスの壁だ。 「お兄さんは今こうして世の中を見ているんだよ」 「………どういうこと」 グラスをカウンターへ戻した男は、今度は片手の親指と人差し指の先をくっ付けて輪を作り、そこから俺を覗き見た。 「これ、やってみて」 何なんだ、と訝しい気持ちのまま、同じように輪を作って片目で覗く。かなり狭いその視界の中では隣の男の顔の全体は入らなかった。近いからというのもある。 「それがお兄さんの視界」 「……狭すぎないか」 「実際そうってわけじゃないよ?歩く事も難しいからね」 それはお兄さんの心の視野だよ。と続けて男が言った。 「心の?」 「うん。本当はもっと広いのに、もっと良い方を選べるのに、お兄さんはわざわざ悪い方を選んでるんだよ」 「……」 「このままでいいの?」 「……」 丸く狭い視界の中で男が首を横に倒した。その目はまだこちらを真っ直ぐに見ている。 輪っかをほどいて腕を下げた。脱力したような勢いで足に落ちた手を、男は優しく持ち上げた。 「どうしたい?」 「どう、って…」 「お兄さんは、どうしたいの」 自分がどうしたいのか、と問われても答えられなかった。 自分のしたいようにしたとして、それで救われる保障はないし、いま仕事を辞めてすぐに別の仕事なんて見つからない。三十路近い男を雇う条件の良い会社なんてないに等しいのだ。 いくら綺麗でも素性の分からない男にそれを答える義理があるのか。友人でもない家族でもない、親しみはないはずのただの綺麗な男だ。後々何かの宗教的な勧誘が行われるかもしれない。 そんな思いが巡り何も返せなくなった俺に、男は言った。 「大丈夫だよ。見捨てたりしない。───狭い世界のままで潰されないで」 力強い男の目が揺れて赤みがかって潤んでいる。そして握っている手は微かに震えている事に気付いた。 その瞬間は、実は何も考えていなかった。ただ咄嗟に立ち上がり、鞄を取って財布から適当に札を引っこ抜いてカウンターのグラスの下敷きにする。 足早に店を出るとき、背後で男が「明日もいるから」と言った。振り返らなかった。 無心で家まで帰り、鞄から細身の封筒を引き抜いてテーブルに置いた。着替えもせずに、ネクタイすら緩めなかった。 「奢りって言ったのに」 「大丈夫なのかい、あんな性急に」 ひとり残された男が、空いたグラスの下敷きにされた札を取ってそれを丁寧に畳んでいると、カウンターの向こう側で柔和な笑みを浮かべているマスターが、彼のグラスを回収した。 目の前には中身の違う新しいグラスが置いてある。 男は小さく声を上げて笑うと、丁寧に折った札を財布に入れていたポチ袋にゆっくりと入れた。 「大丈夫。明日も来るよ」 「見ていられなくなったの?」 「だってずっと見ていたからさ、潰れちゃうと思ったら居てもたってもいられなくて。昨日は眠れなかったんだ。触った時は緊張して手が震えちゃったよ」 「そうかい」 「ところでマスター、」 「ああ、ちゃんと空けてあるよ」 「本当にいいの」 「私も君には助けられたからねえ。君が誰かを助けたいなら、私も手を貸したいんだよ」 「……ありがとう」 店内に人は殆ど居なかった。接待専属の従業員もみんな帰っていて、残っているのは掃除をしている従業員二名とマスターと男だけだった。 「───俺さ、こんなに誰かを好きになったことはないよ」 「ほう、それは良いことだね」 グラスに浮かぶ小さな赤い氷を見つめながら、男は恥ずかしそうに笑った。 ───翌朝の出社は身体が軽かったことをよく覚えている。会社の自分のデスクに大切な私物は置いていないから、持ち帰るものは殆どないだろう。 黙々と終わりのない自分の仕事をいつも通りにこなした。普段は耳を塞ぎたくなるほどの周りの音も、方々からする怒鳴り声も聞こえなかった。 定時になって帰るのは、重役ばかりだ。俺はさっさと荷物を片つけて、封筒を手に、帰り支度をしている目立つデスクへと迷いなく足を運んだ。 視線も声も気にならなかった。 「明日もいるから」 たった一言の、素性知れずの男の声だけは頭にずっと残っている。 後でちゃんと名前を聞こう、と考えながら、馬鹿みたいな丁寧さで辞表を提出した。 END [←][→] [戻る] |