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短編集2(2020~)
光明
 


 辟易していた。
 足首に重りでも付けている感覚を抱きながら、会社帰りの新宿の明るい街を歩いていた。今の自分とは正反対の、きらびやかな「生」がまるで自分を嘲笑っているように思える。


 辛く苦しい不調の原因は仕事なのに、まるでそれが人生の全てであるかのように、どこにいても気が休まらず常に心が不安定だった。
 転職を考えたとしても、この景気で今の勤め先よりも好条件な会社など見つからないし、そんな所があったとしても定員に空きはないだろう。このままあと二年で三十代に入り、四十、五十と古びて垂れ下がるだけの鎖みたいになるのか。
 深夜に帰宅してただ清潔を保つ為だけの入浴と、三時間に満たない浅い睡眠を繰り返し、気だるい体に鞭を打って再び会社へと前のめりに向かっていくのだ。その対価は、肉体の生命意地に必要な最低限の報酬に思えた。

 両親は田舎でのんびり暮らしているが、都会に出ていった息子が結婚もなく恋人すらなく、ただ仕事を油のきれかけた機械のように淡々と、しかし奴隷のようにこなしている事など知るよしもない。
 何のために生きているのか分からなくなるのは早かった。

 就職活動の荒波に揉まれて、周りから一足先に抜け出した時は、自分の努力や運が道を拓いたのだと優越感すら抱いた。
 それが崩れ去ったのは入社してたった二年の頃。最初は会社も新入社員に手厚く、先輩も厳しさと優しさを持った良い環境だった。化けの皮が剥がれたのは、新人の肩書きから抜けた瞬間だった。
 彼等の手厚さや優しさなど、こちらに落ちてきたからには逃がさないと巧く首輪を嵌め込んで、監禁する為の鎖を繋げる過程に過ぎなかったのだ。
 その精神的な鎖を断ち切る者はいた。
 しかし弱いものは、その力を吸い付くされて、もはや抗うために立ち上がることすら出来なくなっていた。

 逃げることに成功した彼らからしたら、そんなものは言い訳だと言うだろう。やろうと思えば出来るのだ、恐れずに可能性を見出だせば、簡単なことなのだ、と。

「仕事はいくらでもある。例えアルバイトだろうと、給与が貰える事には変わらない。この会社の保障など、あってないようなものだ」

 一足先に辞めた同期が、最後の日に吐き出した言葉だった。
 俺はそれを、現代社会の闇を描いたヒューマンドラマのワンシーンを観ているような感覚で聞いていた。
 同期は入社当時よりもかなり老けて見えた。年齢は自分と変わらないはずで、入社した時はキラキラしていた。若々しく、快活で、とても前向きな男だった。
 そんな男は、入社三年目で見るも無惨に何倍もの早さで、草臥れた四十の上司と被るほどに萎びてしまった。
 俺も、周りからそう見えているのだろうか。


 ふと顔を上げると、周りとは少し控えめなネオンが視界に入った。「光明」という名前は今の時代よりもひと昔前の印象を抱く。看板自体はまだ新しい。
 それをぼんやりと眺めていると、背後から肩を叩かれて身体が跳ね上がった。
 咄嗟に振り返ると、そこには柔らかさを湛えた笑みの青年が立っていた。雑誌やドラマで見るような端正な顔立ちが、背後に並ぶネオンよりも眩しく感じて目を細める。


「入らないの、お兄さん?」
「え、あ…いや」
「疲れてるみたいだし、一杯奢るからちょっと付き合ってよ」
「でも……」


 煮え切らない態度の俺の腕に手を回した青年は、綺麗な顔で強引に店の方へと引っ張り込んでいく。
 明日も仕事があるのに、でも一杯くらいは…。という葛藤の中で、しかし足はもたつきながらも青年に引かれるままに動いた。


 店は薄暗かった。
 看板にあった和風なイメージとは違って、喧しくないジャズの音と、適度な距離で置かれたソファ席とカウンターのあるバーだった。しっとりした雰囲気で会話をする複数の客たちは、三十か四十代くらいの男が多い。
 いや、店にいる全員が男だ。
 それに気付いた時には既に、青年はカウンターへ真っ直ぐに進んで、バーテンの格好をした五十代くらいの店員に声をかけていた。


「いつもの、ふたつね。───あ、お兄さんお酒飲めるよね?」
「ああ…少しくらいは」
「オッケー。ほらココ座りなよ」


 足の長い椅子は座り心地が良かった。鞄を足の間に置いてカウンターに腕を置くと、慣れた様子で頬杖をついていた青年がこちらを見ている事に気づいた。


「ここ良いでしょ、お気に入りなんだ」
「うん…、ここらは良く通っていたんだけどな、気付かなかったよ」
「だってお兄さん、いつも下向いて歩いてるんだもん」
「え?」


 疑問が浮かんだ直後、音もなく目の前に置かれたカクテルグラスに青年は手を伸ばした。
 それは夕焼けのような色をしていた。赤も青も紫もオレンジも黄色もあるような、それでいて違和感なくそれぞれが溶け合っている。


「おすすめだよ、飲んでみて」
「ん、」


 持ち上げて揺れる液体を眺めたまま、青年は自分が持つグラスを俺の手にあるグラスに優しく当てた。
 躊躇いながらも口にしたカクテルは甘かったがしつこくはなかった。柑橘を使っているんだろう。


「どう?」
「ああ、うん、美味しい」
「よかった」


 鼻唄でも歌いそうな雰囲気の青年を傍目に、さっと店内を見回した。ここは確かに、常連は多そうだ。
 外装も看板も内装も派手じゃないし、そのぶん目立ちはしないが入りやすい。
 カクテルを半分ほど減らした頃、青年がこちらに体を向けた。


「で、草臥れたお兄さんは何をお悩み?」
「え?」
「今にも橋から飛び降りそうな顔してるから、つい声をかけちゃったんだ」


 青年の言葉にドキッとする。そんな顔をしていたのかとも思う。改めて言われると情けなさに帰りたくなった。


「見知らぬ他人にちょっとくらい愚痴を吐いたって、誰も咎めやしないよ」
「………」
「ね、お兄さんいくつ」
「28」
「わあ、同じ年だ」


 まさか、とグラスを見ていた顔を上げたら、悪戯っ子のような目をした青年がカクテルを口に含んだ。
 この見た目で同じ年?まだ二十歳そこそこかと思っていた。


「びっくりしたでしょ、よく驚かれるよ」
「ああ…驚いた。随分年下かと」
「年下に奢られたり愚痴なんてって思わないで済むよ」
「……ふ、そうだな」


 見た目云々なんて信用ならないと、つい最近分かっていたじゃないか。
 頭の中で老け込んで見えた元同期を思い浮かべ、自分を嘲笑うように息を吐き出した。


「───さて、話を聞かせてよ」


 不思議な人だな、と目の前で話を聞く姿勢を取った男に、俺は今まで吐き出せなかった不満や不安を雨垂れのように少しずつ落とし始めた。


 


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あきゅろす。
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