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短編集2(2020~)

 


 飛田雲水は、固定観念を棄てて様々な視点から物事を見ろと言われたのだろうか。言わずもがなその解釈は俺の個人的なものだから、本来のそれとは異なるとは思うし、考えておきながらそんなことはどうでも良かった。
 今求めているのは別のことだ。


「雲水。もう一回呼んでみて」


 再び言うと、彼は目端が切れそうな程に見開いた瞼を硬直させた。瞬きすらせずに、乾燥すら意識できないようだった。
 その瞳からぼんやりと自分の姿を確認した。


「───氷雨」


 彼はこの音以外にどんな音色を出せるのだろうか。同じ言葉で何種類の音を出せるのか知りたくなった。
 これは恋だろうか。恋になるのか。どんな形であろうとも名称は変わらない。それとももっと深いのだろうか。この感覚を知らなかった俺は、それをはっきりと区別する言葉をあてられない。
 しかしそれでも嫌悪ではない事は確かだ。これは好意だ。単純に、簡単に現すならば、それはこうだ。


「好き」
「───は?」
「愛しい」
「はぁ?」


 言葉の意味が分からないわけではない。その真意が分からないから雲水は疑問符を投げるしかないのだ。
 つい数十分前まで名前すらまともに認識されて居なかった相手の名前を呼んだら、好きだと言われるなんて理解できないのも仕方がない。
 それでもこれは確かに正解だ。


「……っおまえ、名前呼ばれたら好きになんのか」
「ならないよ。でも雲水は愛しい」
「い、っなんだそれ、意味わかんねぇ、そんなわけねぇだろ…っ離せよ」


 今度は本当に不快を表して眉を寄せた雲水は、俺の手を払って立ち上がった。背が高いせいか首を真上に上げねばならなくなった。
 見下ろしてくる雲水の目はしかしやっぱり泣きそうだ。


「そんな可笑しいかよ。からかってんのか…はっきり気持ち悪ぃって言やいいだろ!」
「思ってない事は言わない」
「じゃあなんで急に…っお前ゲイなわけじゃねぇだろ、そんな奴がこんなあっさり男の告白なんて受け取らねぇし、好きとか言わねえんだよ!」


 泣いた。
 雲水の震えた声が鼻声混じりになって、床に水が一滴落ちた。きっとそれは塩水だ。

 好きだと思って好きだと言ったのは雲水だった。俺が知らない間に募らせたそれは一方通行だった。向かい合わせになった途端に、雲水は俺から逃げようとしている。
 声を荒らげて威嚇している。怖いから。


「人間の興味は好奇心から始まる」
「……は?」


 その場で立ち上がると、雲水は後退っていく。背の向こう側は壁だ。階段は横にある。
 瞳を見ると雲水は動けなくなるのか、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。


「興味は好意にも嫌悪にも含まれる」
「……っ」
「俺と雲水の好意は同じではないが、違うとも言えない。俺は俺以外の推量は出来ないからだ」


 雲水の爪先と俺の爪先がぶつかった。
 呼吸の荒さが増した雲水の下瞼から頬にかけて、涙が流れた跡が見える。


「お前の好きがどんなものか教えてよ」
「…、」
「それとも、生臭い蛙を突き付けられたような不快な気分にでもなった?」
「お前は、蛙じゃねぇ…っ」
「蛙化現象というのを知っているか」
「は、ぁ?」


 主に女性が陥りやすい恋愛に関するその心理的な反応は、かえるの王さまを由来にして表されている。
 片想いなどの盲目的な状態で一方的な気持ちがあっても、それを向ける相手から好意を示されると興味を失ったり嫌悪感を抱いたりするという。性的な行為に対する不快感も同様だ。
 男でも釣った魚に餌をやらないタイプや浮気性な人間に当てはまる。これは遺伝子的な理由もあるが、どちらにしても要因は自己評価の低さや理想と現実の違いに幻滅するなど、理由は様々ある。
 経験が少ない、片想いだけに留まる、理想が高い。付き合うまでや付き合ってから少しの間にある熱量だけを求めているタイプも、またこれに当てはまる。
 今まで交際した三人も、大抵は理想に夢見がちで現実を受け入れられなかったというのが多いし、友人の中には過程を楽しむだけで本気にはならないと豪語する潔く清々しい奴もいる。


「───気持ちを伝えたら満足した?」
「違う」
「それ今のお前のなにが違うか教えてよ。なにを求めて告白したの? 言いたかっただけ? 溜まった膿を出してすっきりしたかった? ただ反応を見たかった? 気持ち悪いって罵られたかった? 見下されたかった? そこら辺にいるやつらと同じように唾を吐いて罵詈雑言でも浴びせた方がいいの?」


 震える唇の隙間から、熱を持った二酸化炭素の小さな塊が荒々しく連続して吐き出されている。雲水の瞳に塩水の膜が目隠しするように滲んで、また一筋が落ちていった。


 


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