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短編集2(2020~)



 散歩を始めてどれくらい経ったか、彼と歩いているといつも時間と距離を気にしなくなる。歳とは言え、休憩を挟んでもかなり移動した。目の前にはガラスの壁と、その向こうに自然が広がっていた。
 元々県境に近かったから行けたもので、中央寄りだったらまず徒歩でなど気力すら湧かない。
 綺麗に磨かれているガラスは、砂埃や雨跡が足元の数ミリ程度にしかない。外側も内側も毎晩機械が掃除に勤しんでいるからだ。
 ガラスに触れると冷たかった。外側に吹く風の振動を感じた。陽の光を浴びて鮮やかに輝く草花は、幼児の頃に与えてもらったお下がりの植物図鑑に載っているものより、最低でも2倍ほど大きい。あの黄色いスイセンなんて私の膝に届きそうだ。

「一度でいいから自然に触ってみたいって、子供の頃から思ってた。あんたは触ったことがある?」
「…あるよ」

 隣から微かな笑い声がした。壁が出来る前なんて殆ど覚えていない事は彼も分かっているだろう。しかし両親が残してくれたものの中にある多くの写真には、私が草原の中で駆け寄って行く姿もある。覚えていなくとも、私は私の過去を知ることが出来る。
 幼き己の過去が頭の中にしか残っていない彼は、日に日に忘れて行くそれらを思っては「時間が解決したのか物忘れが増えたからなのか分からんな」と自嘲するように言っていた。どちらにしろ結局は時間がそれを攫っていったのなら良いじゃないか、と私は思うが、彼は私と出会った時の事、そしてそれからのことを忘れたくないと言う。
 だからこそ彼は出会ってからずっと、毎日ではないが、何かと写真を撮りたがった。このデジカメもそうだ。メモリーカードは記録期間を書いて置かないと、どれにどの記録が入っているのか分からないくらい増えた。
 その小さな一枚一枚が、共に歩んだ人生の全てになるだろう。終わりを知っていると言う事は、誰かにとっては退屈かもしれない。知らぬからこそ良いと感じている。その気持ちは理解出来る。けれど、ただ終わりの日だけを知っているのであれば、それまでの時間を使って自分の人生を輝かせることが出来る。明確な目的が浮かぶ。漠然とした生き方をしなくなった。

 時は有限だ。「生」があれば必ずそこに「死」が存在している。しかし人間は「死」を恐れる。いつか「死」の恐怖から解放されたとて、そこに「生」はないのだろう。
 目の前で力強く咲く花も、地を埋める草の緑も、逞しい木々ですら、終わりはやってくる。そうしてまた新たに生まれ、再び太陽に頭を向ける。生まれ、育ち、咲き、枯れる。私はもう枯れる。緑は茶色に飲まれ、水分は減り、弱々しくなっていった。
 この終わりが人々は怖いと言う。生きる事の方が辛いのに、死を嫌がる。時には渇望し手を伸ばしていても、「生」がぶら下げている餌に惹かれて余所見をする。
 彼もまた、生きる事は辛く苦しいものだった。一時的にそう思っていた私とは違って、いや、他者と比べる物ではないが、しかしそれでも彼は苦しみ、そしてそれが「あたりまえ」だった。幼い頃から生きる事の苦しみを知っていた。息子もまた、降り掛かる苦しみを「あたりまえ」と思っていた。
 けれど、幼い彼らは「死」を望んではいなかった。ただ助けて欲しかった。死にたくなかった。何故だか説明は出来ないけれど、苦しみと痛みの中でも彼らは生きる事を望んでいた。
 しかし大人になるにつれ、人間は死を渇望する。それは「生きる事」から解放されたいからだ。たったひとつでも楽しいと思える事から目を逸らし、僅かな抜け道を見逃して、生か死か、ただそうして極端になっていく。苦しみの連鎖からどうにか抜け出して、そこからどうしたいか。そういった複雑な思考ではなく、端的に、簡単に、明確に、「死にたい」という言葉が浮かぶのだ。
 それが解放で、救いだとしか思えないからだ。手っ取り早く今のこの苦しみを捨ててしまいたい。それ程までに「生」に追い込まれている。
 救いの手も、音も、道も、光すら、視界に入ったとしても見えてはいないし、聞こえているのに聞こえない。囚われる。
 その中から無理矢理引っ張り出してくれたのが私だと、彼は言う。息子は私と彼がそうしてくれたのだと言う。たったひとつの存在があれば、心が繋がっていれば、顔をあげて周りを見回せる事を初めて知ったのだと。

『───依存でもいい。おかしいと言われてもいい。笑われたって構わない。あんたが「俺」を見て、知っているんなら、俺はあんたと共にいる自分の為に、自分を生かすよ』
『それじゃあ一方的じゃないか。僕だってそうさ。ひとりだけズルいよ』
『ずるいって何だよ…』

 ガラスの向こうを見つめる彼の横顔を撮影したら、こちらを向いて笑ったから、私はその顔も逃さなかった。


 ───夕方になる前に私と彼は帰宅して夕飯を作った。特別なものではなく、ただその時に食べたいと思った物だ。帰り道にケーキ屋へ寄ったので甘味もある。
 ゆっくりと食事を済ませ、二人で一緒に入浴した。弛んだ身体でも彼は愛おしそうに洗うものだから、なんだかとても恥ずかしかった。彼の身体は相変わらず締まっていて若々しく見えるが、やはり加齢に勝てない部分もあるという。隆々と勃起するくせに。

 一時間以上かけて入浴したあとは、今着られる最も古い服を着る。懐かしい、思い出の詰まったその服は体に馴染む。
 それから、迎えが来るまでの間、私は彼とソファに腰掛け、腕を絡ませて手を繋ぎ、愛情を含ませた会話をして、時折静かに唇を寄せた。「本当に良いのか」とは聞かなかった。悩む事もしなかった。
 
 
 

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あきゅろす。
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