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短編集2(2020~)



 二人分のコーヒーを淹れていると、洗面所から出てきた彼が再び背後から抱き締めてくる。今日はもう一日中こうだろうな、と微笑みながらカップを手渡し、その場で薄味のコーヒーを味わった。
 最後の日に何をするのか、細かい予定は立てなかった。今日までにやらねばならない事は済ませてある。最後の日は、その時の思うがままに動くと二人で決めたのだ。いつも通りに起きて、ベランダへカップと軽い朝食を運んで過ごす。それから何をしようかと話をすればいい。


「───散歩しながら、写真撮ろうか」

 コーヒーを飲み干した彼はそう言って、テーブルに頬杖をついて私の返事を待った。
 若い頃に買ったデジカメはまだ使える。これまで携帯端末での撮影が殆どだったけれど、最後の日くらい、あの年寄りも動かしてやろうかと思って頷いた。

「なら、デジカメを使おう」
「アレまだ使えたのか」
「メモリーカードの容量も残ってるよ」

 物持ちが良いな、と笑った彼の表情が眩しく感じて目を細めた。今この瞬間も残しておきたいものである。
 彼が食器を片付けている間、私は寝室へ向かい、クローゼットを開けた。中はほぼ空にしていて、二、三個の小箱しか残っていない。その中から、昔使っていた携帯端末たちを入れている箱を引っ張り出した。
 古いカメラは本体の塗装が所々剥げていたが、艶はまだ残っている。レンズも傷付いていないようだ。
 撮影しても現像するかメモリーカードの中だけで終わらせるかは、遺品を受け取る息子の意思に任せようと思っている。アルバムは渡すが、それをどう使うかは自由だ。ただ、最後の日は何をしてどんな表情をして過ごしたか、残しておきたかった。結局は全て自己満足である。これがいつまで残っているかも知る由もないのだから、人間というのはまったく、死してなお強欲な生き物である。自らの預かり知らぬ所であっても存在を認知してもらおうだなんて。
 そんな事を考えて、自嘲するように喉が鳴った。





 デジタルカメラを使うのは何年振りだろうか。基本的な四角いフォルムは殆ど変わらないのに、新しいものは随分と薄く、軽くなった。今じゃあ携帯端末で事足りるけれど、やはり撮影機能を重視した機械に対して上位互換とは言えない。
 だからこそ、まだ廃れないのだろう。このデジタルカメラが古いとはいえ、ただ新しいものにしていないだけで機械自体は毎年新作が出てくる。より高画質に、扱いやすく、軽く、薄く。一眼レフは更にその上をいくけれど、それでも撮影する事に対する拘りの違いか、価格の問題か、使用率で言えば、七割が携帯端末に喰われている。
 時の流れか、そういうレールの上なのか。
 隣で歩調を合わせて歩く彼にカメラを向け、老いてきた横顔を撮影した。鍛えているから背筋は綺麗だし、年齢より若く見えるのは確かだ。渋いオヤジになったものだ、と撮影した何枚かの画像を見ていたら、隣からカメラを引ったくられて顔を上げるとレンズと目が合った。

「あっ」
「転ぶぞ」

 楽しげな笑みを見せた彼の表情の明るさに目を細めた。彼が撮影する気になったようで、カメラは返って来なかった。

 彼の操るカメラのレンズは、くるくると向きが変わる。単調な私の対象選択とは違って色移りが賑やかだ。
 レンズは互いの繋いだ手や、足元、影、ビルに反射した姿を写した。とても魅力的な撮影方法を行った画像を確認してみると、器用な事に私と彼以外の人物を映していなかった。人通りの少ない道を選んで歩いていたのはこのためか。

「川だ」
「……うん」

 ガラスの壁が出来てから生まれた彼の認識と、幼かったとはいえガラスの壁が無かった時代に生まれた私の認識は当然異なる。
 彼が川と呼んで近寄ったそこは、大小さまざまな岩と、石畳で作られた枠の中を流れる水。私から見れば、それは水路だった。海とは繋がっていないし、どこかから湧き出している場所があるだろう。
 実際に海や他の川から繋げて流したら、そこには植物が生える。苔でも、雑草でも、他所から拾って流れて含まれた成分から、あっという間に目に見えて成長していく。そしてその植物は毒素を含む。壁の外と同じように、たとえ微量であっても集まれば致死量だ。
 人工植物と、人工の小川、人工の岩。水路に見えたとしても、天然などどこにもない。草食動物は壁の外へ放たれ、動物園には肉食ばかりが集まる。適応すれば良いが、出来なければ動物は絶滅する。水族館も似たようなものだ。
 六十五年も生きれば、わずか五年の記憶なんて殆ど消えてしまう。五歳の頃に何があったのか、何をしたのか、何を見たのか、何を知ったのか。当時両親が残してくれていた物が殆どの証拠だ。
 それでも、《それがそこにあった事》は覚えている。

 さらさらと流れている水の音と、彼が撮影したシャッター音を認識して我にかえった。
 壁のない頃を懐かしいと思う人は消えていく。そして、誰もが歴史の一部としてそれを認識して、「そんなことがあったのか」と、まるで知識としてのみの明治や大正時代までを学び知るように。
 だからこそ、私は残している。
 壁のなかった時の写真も、物も、記録として残している。

「これはどこまで続いているんだろうな」
「どこだろうね」

 それを知る機会はない。
 知る必要もないのかもしれない。《知らなくて良い事なのかもしれない》。

 
 
 

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あきゅろす。
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