短編集2(2020~)
5
*
「本当はさ、二人が一緒に行くって決めた時、何で自分だけ置いて行くんだって思ったんだよ」
と、言いながら、しかし泰斗は私ではなく、ベランダにある椅子に腰掛けて室内で我が子と遊ぶ親の姿を眺めている。
誕生日会はささやかだったが、息子とそのパートナーである琴子さん、そして二人の子供達が祝ってくれる。それで充分だった。孫の男の子の外見は琴子さんに似ていて、性格は幼かった頃の泰斗を思い出させる。女の子は外見は泰斗に似て、中身は琴子さんかもしれない。二人とも元気だ。
「怒っているかい」
まだ寿命ではない彼を、泰斗にとっての親を、また親である私が連れて行ってしまう事は、多大なる心の虚しさを感じるものと分かっていた。恨まれても仕方ないとも思っていた。
しかし泰斗は小さく笑って横に頭を振る。
「怒ってたのは最初だけ。あの時も言ったけど、二人が決めた事を邪魔しようとは思ってない。今の俺には琴子も子供たちもいるし、何より二人に充分愛してもらったから」
「ずっと愛しているさ」
「分かってるよ、分かってる」
一緒に逝くと決め、それを当時高校生だった泰斗に伝えた時、泰斗は何も言わず、しばらく家に帰って来なかった。怒鳴り合いの口喧嘩の方がマシだったかもしれないと思うほど不安で、泰斗が自ら命を絶ってしまわないか、事故に遭ってはいないか。伝えなければよかったのではないか、という後悔で体調を崩した事もあった。
けれど、泰斗はひと月後に帰って来て、出会った時と同じ真っ直ぐな目で言った。「二人が決めた事なら、それでいい」と、家を出てから帰ってくるまで、ずっと考え続けていた事を話してくれた。
どうやら家に帰ると私たちは必ずいるため、「どうせ心配してあれこれ声をかけてくるだろうから、冷静に考えられなくなると思って」とのことで、親の事をよく見て理解しているなと感心したものだ。
「素晴らしいパートナーと息子に出会えて、私は幸せ者だな」
「俺も、」
泰斗が立ち上がり、手に持っていたグラスを煽って入っているワインを飲み干してから、こちらを振り返った。
「生きてて良かった」
「───……、」
その言葉には想いの『全て』が詰まっていた。長々と語らずとも、たったひとつ、その言葉だけで、私たちは泰斗を息子として迎えたことや親として過ごした年月、その全てに価値を与えてくれるのだ。
背を向けて室内へ入って行く息子の、大きく広い背中を見つめたのち、室内からは背を向けて柵に腕を掛ける。
頬に滑り落ちた涙は、風に吹かれてそこだけ冷えを感じた。楽しそうな笑い声が聞こえて、つい笑みが浮かぶものの、涙は止まらなかった。少しずつ、一筋一筋と優しく流れていった。
───子供達が疲れて船を漕ぐ頃、私たちは息子たちと外にいた。帰り道の途中まで、散歩がてら送ろうと言ったのは私だった。
息子の家と私たちの住む家とちょうど中間あたりの公園で、息子は眠る男の子を抱えなおして振り返る。
「ここでいいよ」
「そうか」
「今日は来てくれてありがとうね、泰斗も、琴子さんも。孫にも会えて良かった」
「……っ」
琴子さんは泣いてくれていた。孫達は、もう二度とジジたちに会えないとは分かっていない。それでいい。
《見送り》は付けない、と決めているため、息子ともこれで最後となるが、泰斗はそれを話題に出さなかった。ただ一瞬、苦しそうな顔を見せたが、すぐにまた真っ直ぐな瞳が貫いてくる。
「それじゃあな、泰斗、琴子」
「ありがとうね」
このまま居ても二人は動かない気がして、彼が先に手を振って踵を返した。普段の別れ際と同じで、「あたりまえ」に次があるかのようだった。彼に続いて幼児を抱える二人に背を向け、差し出された彼の手を取ってゆっくりと歩いた。
私はまた泣いていたが、彼は泣かなかった。強く握り締められた手の熱さに確固たる意思を感じ取れる。実際の誕生日は明日だったが、もうこのまま逝っても良いとすら思えた。
「風呂入って寝るぞ」
「……ふふ、うん」
きっとこれは一緒に入るということだろう。この歳になってパートナーと入浴とは、いや…わりと数は多いか。互いによく乱入し合っていた事を改めて考えると、流石に笑える話である。
全てに「最後の」がつく日を、私はどれだけ充実させることが出来るかと考えながら、ガラスに仕切られた向こうの夜空を見上げた。
*
目を開くと、カーテンの開けられた窓の向こうは晴天に見えるほど晴れ渡っていた。背後から腕で拘束されている事に気づいて、自分を抱き締めている存在を見やると、まだ眠っているようだった。
最後の日までこの癖が抜けることは無かったな、と自分を囲う腕の愛しさに相好が崩れてゆくことを自覚する。
背後で身動きした彼は私の首に顔を埋めた。起きているのか寝ているのか分からないが、そろそろ動いても良いだろうか。
寝返りを打って向かい合う体勢を取ると、彼は薄ら目を開けた。
「おはよう」
「ん……」
低血圧な彼の寝起きはあまり良くないが、それでも抱きつく腕だけは変わらずそこにあって、力加減を覚えたそれらは無意識でも居心地良く包んでくれる。
若い頃は加減が分からなくてよく息苦しさを感じたものだが、愛しさの方が優っていたのでそれもそれで悪く無かった。
眠る前、朝の目覚めから何かが自分の中で変わっているかもしれないと思っていたが、実際目を覚ましても特に変化は感じられなかった。今までそんな事を意識していないから、変わったところがあるような錯覚があるだけだろう。心が落ち着いていられるのは、普段と変わらない彼がそこにいるからだ。
「───そろそろ起きようか」
「ん、」
のそりと身を起こす彼はまだ眠たそうだが、トイレへ行って、洗面所で顔を洗えば目も覚めるだろう。先に立って身体を伸ばしながら寝室を出た。この歳になると体を起こすも伸ばすも少しコツがいる。
電気ケトルでお湯を沸かす間に洗面所で顔を洗っていると、背中に圧力が覆い被さって来た。
「う…っ、私の貧弱な腰を労わってよ」
「鍛えないから」
「鍛えてても今朝は労るべきだと思うなあ」
「あとでマッサージしてやろう」
「うん、嬉しいけれど、まずそこどいてね」
五十八の男の行動ではないが、彼らしいと言えば納得してしまう所が私の甘さなのだろうか。全盛期より衰えたとはいえ、昨晩も彼は現役であった。
五十を過ぎてから更に身体が辛くなって、挿入ありの性行為の頻度は三分の一以下になったものの、お互いそれなりに欲はあるから抜き合いだとかはしていた。しかし最後だからと受け入れたのは私である。
ゆっくりと時間をかけた行為は、微睡のような心地よさだった。
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