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短編集2(2020~)



 彼らは独自に病原菌から我が身を守るため、大気中にとある物質を放出し始めたのである。それは未知の物質で、人間は『それ』の研究に時間を費やしたものの、唯一わかった事は、その物質が人間の体内に一定量蓄積されると致命的な毒に変化して、その後二十四時間で全ての神経が破壊され死に至るという発見だった。当時はまだ排出されたばかりの物質で大気中の濃度はとても低く、人体への影響はなかったが、排出速度と量によっては瞬く間に大気の五十パーセントを占めるだろうと結論づけられた。
 当時の見解による致死量の蓄積までは、平均的な成人の肺活量で約一週間。平均よりも高いと三日、低いと二週間などという結果が弾き出され、研究者たちは実験で積み上げられたラットの死体と書類に埋もれ、国民にどう伝えるべきかの最難関の問題にぶつかっていた。
 その物質の不可解な点は、人体や蔓延するウイルスにとって毒になり得るものであっても、植物や大地に害はなく、養殖の魚や人工的に作られた遺伝子の動物以外は適応する可能性があるということだった。それはつまり、植物が、人や人が造った生物を殺そうとしているという可能性。蔓延したウイルスは自然発生ではなく、人の手によって故意に造られ、野に放たれた存在である事は承知の事実だった為、殊更その危惧が膨れ上がる結果となった。

 ウイルスによる人口減少は、全世界に共通していた。そしてその後に襲い掛かった植物による無差別な拒絶。各国の人間は、自然と同じ空間で生きる事を諦め、ガラスという囲いを使って人間の為に別の世界を創り上げた。
 各都道府県や国外へ行く為に人間が造ったのは、地下道やガラス張りの通路だった。なぜガラスにしたのかは、自然が視界に入るようにするためらしいが、それはあくまでも人間側の膨大な自尊心の問題である気がした。

 ガラスの箱が出来上がってから三年後の国内人口は、五千万人を切ろうとしていた。四十七都道府県ごとに約百万人程度まで減少した人口は、その三割が二十代、六十代に至っては一割未満で、七十代は《存在していない》。
 その理由は、箱の中で生活するにあたり、国では人口上限、《意図的な寿命》が定められたからだ。少子高齢化を防ぐ為、生活水準を守る為。理由はそれらしいものだったが、実際のところ、老いて生活が困難になる人間から減らしてバランスを取る、というものだ。
 それは国民だけではなく、総理大臣や皇室、その他政府関係者も上級国民でも大企業の社長であっても、偉人凡人の差別はない。満六十五歳の誕生日、二十三時五十九分までが、今の日本国民の寿命なのである。
 もちろんそんな決定をした後は混乱と暴動、犯罪の急激な増加、国は自滅する勢いで混沌と化したが、当時の大臣は事態の深刻さに決断を急いた。それまで長らく続いてきた憲法の大幅な改変により、法律の数はかなり減らされ、かつ理解しやすく纏められた。
 六十六歳以降の人口が消える為、伴って老人ホームなどの施設が幼稚園や保育園、病院に変わり、障害や児童福祉関係の人員も補償も手厚さが倍以上に増加した。
 国の新たな決定による混沌が落ち着くまでは、ガラスの囲いの完成から五年掛かったが、想定よりも早く落ち着いたのは国民性なのだろうか、と当時のメディアは報じている。





 ───衝撃的な出来事から六十年、昨今はもうガラスの囲いが生活の「あたりまえ」となった。さまざまな疑問視の声は当然あるが、水面下での議論に落ち着いている。
 ガラスの外の調査員は、外気の濃度を測り、いつかまたガラスのない世界へと戻るための研究を、多くの国と結託して続けている。
 その結末を知る事は叶わない。ガラスの壁がない世界で生まれ、混沌を生き、またその中で青春を味わい、そして愛を知ったのはいつだったか。
 激動の含まれた、なかなか良い人生だったと、この数年何度も振り返っては共に笑い合ってくれた七歳下のパートナーと生きられた人生こそ、正しく悔いの無い生涯と思えた。
 私は明日、六十五歳の誕生日を迎える。


「誕生日なんて、昔はケーキやプレゼントを貰うだけの美味しい日だったなあ」
「今じゃあどこも盛大にやってる。花火を上げる所も増えて、ほぼ毎日花火大会だ」
「明日は花火を上げるかい?」
「やりたいなら買っておくが」
「空を見上げているよりは、お前を見ている方が有意義かな」
「相変わらず《くさい》な」
「性分なんだ、分かっているだろう」
「ああ、充分に」

 淹れたてのコーヒーは年を取るにつれて味が薄くなり、豆の消費量が半分以下になった。朝早くから起き出して、ベランダに置いた外用のテーブルに軽い朝食とコーヒーカップ、向かいの椅子で外を見ながら一息つく。それをもう三十年、繰り返してきた。
 パートナーは、彼自身が生まれる二年前には既に出来ていたガラスの箱について勉強熱心で、よく私に話を聞いてきた。直情型で愛嬌のある容姿をしている。六十を間近にしても少年のようなあどけなさが未だ滲んで見えるのは、惚れた欲目か盲目か。

「───本当に、一緒に来るのかい」

 カップに残った紅茶のようなコーヒーを見つめながら、独り言のように言った。
 向かい側からの答えはすぐには返ってこなかった。ふと顔を上げると、真剣な表情で彼は私を見ていた。

「気持ちは何も変わらない。残されるのは嫌なんだ」

 陽の光に照らされた彼の顔は、若かりし頃を思い出させ、真っ直ぐな眩しさに目を細めた。
 幼い頃に聞いたという教師の話。彼はまだ、それをはっきりと覚えているのだろう。愛するものが先に逝くことの虚しさ、切なさ、悲しさ、やるせなさ。
 六十六歳以降も生きていたいからと、《迎え》から逃げ出した人は何人もいた。しかし、彼らの終わりはあまりにも残酷で、素直に受け入れる方が素晴らしい最期になる事を悟らせるには充分な瞬間であった。ニュースなどで年間に数人はまだ逃げ出す人も見受けられるが、六十年間での逃亡の最長記録は二十時間である。

「身辺整理も終わった。後のことは、あいつがやってくれる」
「……すまない」
「なにが」

 低く怒った声につい苦笑いしてしまう。

「いや……ありがとう」
「愛してるからな」
「ああ、そうだね」

 

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