【絶対性の欠如すなわち秩序の崩落。 信頼の裏切りすなわち心地よさの崩壊。 絶対が絶対で無くなったとき残されたものは。 認められない感情と虚無感を抱いたままもう何にも縋れない。 幸せでいるための墓標は焼き捨てられた。 さようなら、我を人間たらしめていた最後の絆よ。】 .最後のひとつ. 思っていたよりも嵌っていたのだということに気づいたのは、彼に無自覚に裏切られてからだ。彼は裏切るつもりはなかったのかもしれない。それでも、自分にとっては確かな裏切りだった。 勝手に信じて勝手に裏切られたとか、それは無いだろうという言葉が一瞬脳裏をよぎったが、もはやそんなことどうでもよかった。 信じさせたのは向こうだ、その責任が無いとは言わせない。 シェゾは空間を渡って瞳を開く。久しぶりに帰ってきた自分の住処としていた遺跡は生活感がまるでなく、ただ埃と、幾名かの部下に静かに迎えられた。 全然帰ってきていなかったのに、どこに何があるのかとか、何をどうすればどうなるのかとか、全部覚えていた。あたりまえだ、この遺跡との付き合いは長い。 彼の人の城に居た時間よりもはるかに。 100年近く住処としていたここに比べたらあそこなんぞたったの2年足らずだ。それでもどこかに未練を感じた気がして首を振った。有り得ない。 だって自分は愛されたかったのではない。守られたかったのでもない。 ただ。 シェゾはぼんやりと部屋を見送って、机の誇りを払い空間から荷物を取り出した。 いつの間にか彼の城にため込んでいた道具、本、それに服。 そのひとつを抱き寄せて顔を埋めた。染み付いた香りは彼の人がつけていた香水。いつの間にか移っていた彼のにおい。 もう一度それを抱きしめると静かに、魔導でそれを灰にした。 もう二度と、彼を思い出すことのないように。彼に抱かれ縋った、その事実だけを取り残して。思い出とか感情とかそんなよけいなものを抱くことのないように。 ……悲しくはなかった。 彼の裏切りを知ったとき、残っていたのは不思議と失望感だけだった。失望、だったのだ。己に浮かんだものは。 彼は裏切った自覚すらないだろう。自分が勝手に信じていただけだ。 あれだけ逃げられないと思っていたのに、絶対性を無くした彼には、もう自分を捉えることはできない。絶対性を持たない彼に、もう自分が捕らわれることも、ない。 愛されたかったのではない。だから彼が婚約者を少女と公言し、他の誰を抱いてもそれが当たり前だった。 守られたかったのでもない。だから自分だって金に困っては身を売り、死にかけても助けてくれなんて願わなかった。 ただ彼の持つ絶対的な強さ故の強弱の差は自分を甘えさせてくれた、それだけが唯一だった。 誰よりも何よりも、ただ、羨望と憧憬を。すなわちの唯一無二の信頼を。 だから彼の『上』の存在を認識してしまった以上、もう彼に縋ることが出来なくなって、しまったのだ。 瞬間の絶望。 いつだってどこだって何もかもをわかったような顔をして、たまにふざけてみせるその表情が大嫌いだった筈なのに、いつのまにかそれに心地よさを感じていた。その絶対性は自分を裏切らないと。 だからこそ、見たくなかったのだ。余裕のない彼の仕草は。 きっかけなんて一瞬。 彼がいいようにあしらわれていた、それだけ。 ただそれだけ。 だがその事実は自分の中に確かにあった絶対性への裏切りだったのだ。自分勝手と、言われたとしても抱いてしまった感情は動かない。 己の強さへの侮辱を、感じてしまったのだ、そんな彼に。あんな、奴に甘えるなぞあってたまるかと。 まさかこんなかたちで幕引きがくるとは、シェゾ自身思っていなかった。案外自分も冷たいなと一瞬思ったがしかし、すぐにそれも仕方がないと納得した。 感情なんて余計なものだ。 シェゾはしばらくじっと閉じていた瞳を開くと、羊皮紙を取り出して口を開く。 言霊が紙に文字を綴るのを見送る彼の瞳には、何の表情も映ってはいなかった。 【ありがとう、短い間だったけどその隣は心地よかった。ありがとう、つかの間の夢を見させてくれて。 ありがとう、最後に、人間らしい感情を思い出させてくれて。 夢ならば覚めないとならない、から。 さようなら、もう二度と会うことはないだろう。謝っておいてくれ、皆に、すまないと。 俺は闇の魔導師として、最後の刻をきざみます。】 それが彼の最期の置き手紙。それ以来彼を見たものはいない。 どこか遠くの北の地で、闇が森を呑み込んで時空の狭間に消えたらしいという噂を聞いたのは、それから僅かに3年後のこと。 【最後に一言】 【……裏切られていたことを知る最後の瞬間までは。お前のものになってやっても、いいかもしれないとは、思っていた。 こんな自分を『人間』ごときと、言ってくれた絶対無二のお前のこと】 【愛していました】 −−−−−−−− ← −−−−−−−− 心の支えが確かなものでないと、人間は頑張れないのよというはなし。 なんだかんだてサタシェのさよならはシェゾから告げるはず。 シェゾはそれこそ180年のこの時期で心開きかけた相手が居なくなったらいよいよ感情棄てそうだなと。人間として最後の何かを亡くしそう。 それはシェアルでも同じことで。 シェゾはサタンに一種の偶像的憧れを抱いているので、それを無くしたすなわち信じてたサタン像ががなくなること。イコールサタンが居なくなる。 シェゾは不必要と判断するのは早いです。そこから切り捨てるのも。そうしてなくしてきた人間らしさ。 (それが最後のひとつ) |