リクエスト作品
神さまの嘘泣き
――真夜中の一階テラス。
驚きで目を見開くメリルの前にはこのガルディオス伯爵家令嬢マリィベル様の御友人である男爵家のお嬢様が、それはそれはとても綺麗なお嬢様が立っていた。
一瞬にしてメリルの頭の中は真っ白になり混乱して一歩後ろへと後ずさり視線を横へと逸らす。
ほんの少し前に声を掛けられ、どうしてこんな夜中に此処にいるのかと聞かれたことを思い出したメリルは慌てて頭を下げた。
メリルはとんだ無礼者だ。
使用人用の浴場から部屋に戻るには此処を通るのが一番の近道だと同室のメイドに朝言われ、そんなことは出来ないと思ったが一度くらい試さなければその子にも悪いと思って出てきた結果だった。
悪いことは決してするものでない。
メイドが客人の前に姿を現すのなど以っての外で、しかも調度メリルは湯浴みをして自室に戻るところでメイド服でさえ着ていない始末だったのだ。
「申し訳ございませんでした」
混乱し問いに答えるのも忘れ深々とまた頭を下げたメリルにそのお嬢様はため息をつくともう良いというかのような仕種をした。
当たり前だろう。
こんな夜遅くに使用人に頼むでもなく自ら足を運び屋敷の外へと出てきているのだ。
大切な用事に違いない。
それを一メイドにかまけて時間を割くなどということはしたくないだろう。
――しかし、その時に上から水が掛かった。
バシャバシャッという音がしてメリルの頭に注がれる。
メリルが毎朝取り替えている、よく嗅ぎ慣れた青臭い匂い。
花瓶に入っている水の匂い。
メリルの顔を伝って水が滴り落ちる。
服に水が張り付き重みを増し、石畳は自分の周りだけ色が濃く変色した。
メリルは羞恥で顔が赤くなった。
目の前にいるお嬢様に掛けられたのか。
いやお嬢様は何も持ってなかったし、頭だけでなく全体に降り注がれたことからして上の階から掛けられたことが分かった。
誰が、とも思ったがメリルは怖くて顔を上げられなかった。
誰かも知りたくなかった。
それが嫌われているからという理由でも、今目の前にお嬢様がいるという状況を考えると恥ずかしくて惨めで声も出せない。
何と思われただろうか。
ぼやける視界でお嬢様の綺麗な化粧着にも少し水が跳んでしまっていたのが見えた。
動悸が激しく耳に響いて、動くことさえ怖くて出来ない。
「屋敷の者が無礼をはたらき申し訳ない」
頭上からした声に固まる。
お嬢様は二歩後退して上を見上げたようだった。
「……ガイラルディアさん」
声を聞いて、分かりたくなくても分かってしまっていたが、お嬢様の唇から紡がれた名前にああやはりそうか、という確信を持った。
「ほら、メリル」
「ま、まことに申し訳ございませんでした」
その頭を下げたままの姿勢で謝った。
どうすれば良いか分からないのはお嬢様の方も同じようで、戸惑ったようにヒールの踵を後ろへとずらした。
「もう夜も遅いこと、どうぞ部屋へお戻りください」
「え、あっその……」
「部屋まで送り届けたいのは山々ですが、私はこの者に用がありますから」
顔を上げなさい、とメリルは言われ、お嬢様に濡れた顔をお見せしないようにと二階のテラスから覗いているガイラルディアへと顔を向けた。
冷たく射抜くようにメリルを見降ろす主。
メリルがガイラルディアに、そのように見据えられる事は本当に、久しぶりであった。
見上げたメリルを認めるとガイラルディアは来なさい、と言って花瓶を手摺りに置く。
「は、はい。直ぐに着替えて、」
「今すぐ、此処に来なさい」
有無を言わさぬその声に萎縮するとメリルは返事をし、やはり濡れた顔を見せないように気を配りながら礼をして出てきたばかりの硝子扉から屋敷内へと入った。
ガイラルディア様のいた部屋は何に使われていた場所だっただろうか。
気を少しでも抜いたら竦みそうになる足をメリルは叱咤して歩みを進ませる。
何を言われるのだろうか。
叱られるに決まっている。
申し訳ないと思う。
しかし、それ以上に息苦しい。
「…………ッ」
――本当は、怖いのだ。
叱られることではなく、彼が。
身分のある人々の気持ちの在り所などメリルには計り知れないこと。
一番の身近にいる慕っている方でさえどこか畏怖を感じることを否めない。
それはメリルだけの話ではない。
貴族の「使用」人として働く誰もがその気分を味わうのだ。
だから隔たりが鮮明に見え、妖艶と映る華やかさを彼等は持ち得るのだろう。
彼等は触れてはならない誘蛾灯だ。手を突き破り温め擦り抜ける光なのだ。
深意を盗み見しようものなら双眼を潰されてしまうといった類いの存在なのだ。
だから、本当は怖い。
ずぶ濡れのメリルが階段に足をかけると見回りをしていた兵士に驚かれたが、それがこの屋敷のおっちょこちょいな愛らしいメイドだと気付くと苦笑して擦れ違っていった。
この塔は家主より使用人たちが動き回る裏方の塔であり、式典や食事会に使われる器具類もまとめて置いてあるような建物であった。
そのため何故このようなところにガイラルディア様がいたのだろうか首を捻らせる。
夜になれば殆ど人が来ないような場所であるだけに暗くなっている階段で身震いをした。
一つ階を上がりガイラルディアのいたと思われるバルコニーのある部屋の前に立った。
メリルは濡れた袖で顔を拭い、小さく息を吸い込んでノックをした。
返事が聞こえないまま足音が近付いてきてゆっくりと扉が開かれる。
目の前に目鼻立ちの良い顔があり、その笑えば誰をも魅了する表情を無にして濃い碧眼がメリルを見据えてきた。
メリルは感嘆の息を漏らす。
打ちのめされた気持ちになり、硬く唇を引き結ぶ。
「な、何を申し上げてよいのか、まことに」
「彼女は姉上の大切な友人であって失礼があってはならないんだ」
「あ、ガイラルディア様」
震えがきたメリルにガイラルディアは黙って、とメリルを制しする。
「話すことが沢山あるのは分かるね」
「は、い」
「そう、良い子だ」
入りなさい、と少しだけ大きな声でガイラルディアが言って扉を開くとメリルはそれに従った。
そのためガイラルディアが流し目で廊下の柱の後にいた男爵家の御令嬢の影を見て小さく笑い扉を閉めたことを知ることはなかった。
実は男爵家の御令嬢にガイラルディアは好意を寄せられており、数日泊まり続けた彼女が夜遅くに寝室に訪れていた――勿論仕事がたまっており相手が出来ないことを伝えて門前掃いするのだが効き目がない――事を煩わしく思ったガイラルディアは夜にこの別塔へと来るようになっていた。
意地の悪い姉が直ぐにその事を令嬢に話したらしくこちらにも来るようになり、誰のお陰でこのような事をしているのか気付かないとは何とも愛らしい令嬢だとガイラルティアは皮肉ったものだった。
さて本日はどう迎え撃とうかと考えていたときに下から令嬢とよく知ったメイドの声が聞こえ、これ幸いと利用させてもらったということが事実。
そんな事を知らないメリルは寒さと恐怖で震える身体を抱きしめて床に散らばった花を見つめていた。
「――メリル」
「はい、ガイラルディア様」
びくっと震えたメリルはゆっくりとガイラルディアを見たが直ぐに目を見開いた。
「当たり前だけど冷たくなってるね」
それはガイラルディアが近付きメリルの頬に手を添えてきたからだ。
「あっお手が濡れてしまいます」
「建前上、君を叱らねばならなかったことは分かってくれるね、メリル」
眉を下げて悲しそうに囁くガイラルディアにメリルは息を飲む。
近付く顔に胸が高鳴ったメリルは許しを願うような瞳を向けてくるガイラルディアから目を逸らしてしまった。
「分かります。それに私が無礼を働いたことには間違いありません」
「そう、分かってもらえて良かった」
「ですから、何か罰をお与えくださいませ」
不安な顔をしているのだろう。
ガイラルディアは困った顔をしてそうだね、と呟く。
そうしてもらわないと気が済まないし逆に自分を責めてしまうというメリルの心を分かっているのだ。
「じゃあ明日から一週間。湯浴みを終えたらこの部屋に来なさい。その俺に付き合った時間は賃金が発生しない、で良いかな」
「ありがとうございます」
メリルはほっと息をついてガイラルディアを見上げる。
御礼なら言葉でなくキスをしてくれた方が嬉しいよと軽口をたたいたガイラルディアに本気でないと思っても恥ずかしくなってしまってメリルは目線を下げた。
目を細めて優しい声でもう一度湯浴みをしておいで、と言ったガイラルディアはしかし頬より手を離さない。
「メリル、頼むから俺を嫌わないでくれ」
「そんな、嫌いになるはずなどありません」
ガイラルディアの思考の海をメリルが分かるはずない。
でも今メリルが離れていかないだろうかと心配する気持ちは本当だと思うことができる。
ふっとメリルは笑ってガイラルディアの両手に触れた。
「私はこのガルディオス家を、ガイラルディア様をお慕い申し上げております」
心からの言葉だった。
しかし、あのバルコニーで見た冷たい表情もガイラルディアの真の一部であることを忘れてはならないとメリルは思うのだった。
End
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ガイメリなのに甘くないものになってしまいました。
それぞれ相手への気持ちは詰まってます。いや詰まっているつもりです。
リクエストありがとうございました。
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