3-10 「少し、お話をしてもよろしいですか? ロス様」 「うん」 ユーリは僕の手を導いて、再びソファへと誘った。 ユーリがなにを指して『悪い』と話しているのか解らない。 両手をぎゅっと握りしめて、俯きがちになっていた顔を上げると、ユーリは僕の目の前で身を屈め、たおやかに微笑んでいた。 それはきらきらと、僕を癒す笑顔だ。 だから、自然と言葉は続いた。 「ユーリが本当に悪い人だったら、僕にそんなことは教えないよ」 「悪いことはこれからするんですよ、ロス様」 僕に向けて艶然と笑ったユーリに、信じられないという意思表示で首を振る。 そんな僕の耳にユーリの柔らかく息を漏らした音が届いた。そして静かに続く声。 「オレはロス様の気持ちを知ってます」 「……え」 唐突に落とされた真実に、僕は間の抜けた声を発した。 知られてる? 僕の気持ち? ユーリを好きだっていう、この気持ちが……!? 僕が頭で理解するよりも早く身体はちゃんとユーリの言葉を認識していたようで、血の気が一気に引いていく。 ぶるぶると握りしめた両手が小刻みに震えていた。 想いを打ち明ける気は、なかった。答えはいつだって予想できたから。 ずっと見ていたから、ユーリがいつも誰を追っているのか胸が痛いほどよく知っている。 恐る恐る見上げると屈めているせいで僕よりわずかに高いユーリの瞳は憐みの色に染まっていた。そこにあるのは同情だろうか、それとも憐憫なのだろうか。 それだけで、この先の話が僕にとって暗闇でしかないことが解った。 「この形がカイリ様にとっても、オレにとってもいいんじゃないかってずっと考えてました。 ……でも、駄目なんです。心からロス様にお仕えすることができなければ、従者として意味がない」 どくどくと、鼓動の音が煩い。目頭が熱い。 僕はそっと顔を伏せる。ここからの話はユーリの顔を見ていられなかった。 ユーリが大切な話をしているのに、目を見られない。 覚悟してたのに。ユーリはカイリのことを想ってるって知ってたのに。 いざその瞬間がくると、怖くて仕方ない。心が引き裂かれるように辛い。 これからユーリが紡ぐことが予想できるからこそ、心が悲鳴を上げる。 聞きたくない。逃げたい。このまま聞かずにいたら幸せな夢を見れるんじゃないかって、願ってしまう。 駄目だ、聞かなきゃ。聞かなきゃ、いけない。 ユーリが僕に話すと決めたのには、何か事情があるはずだ。 でも。でも……! 僕の葛藤する意識を強制的にねじ伏せるように、ユーリは淡々と想いを述べる。 「オレはロス様の気持ちにずっと甘えていたんです。無条件に優しく包み込んでくれる存在が欲しかった。 だけどそれは、ロス様じゃなくてもいいんです。オレにとって、カイリ様以外は誰でも同じことだから。 カイリ様はオレに優しくて甘い居心地のいい言葉は与えてくれない。 でも今はそれでいいと思ってるんです。その方が満足することなく、いつまでもカイリ様を追って行けますから」 僕にとってはユーリと過ごせる貴重なこの時間。だけど、ユーリにしてみたらどうだろう。 久しぶりに短い期間カイリと過ごせる中で、またもや強制的に僕と一緒だなんて。僕にとっては幸せでも、ユーリにとっては残酷な行為だ。 ……エドは怒っていたっけ。ユーリからは怒りを感じることはないけれど、エドと共感する気持ちがあるのだろう。 「カイリ様と兄さんは陛下もお認めになられるでしょう。ですが、それは外堀が埋められただけのこと。 多少面倒なことになるだけで、兄さんにとっては大した障害じゃありません」 浅はかな自分の想いを見透かされたようで、羞恥に顔を染める。エドの想いを無視して進めた行為をユーリは咎める。そんなことは無駄なのだと。 人の想いを無視した僕が、自分の想いなんて叶えられるはずなんてない。 こみ上げる想いを堪えるように、唇を噛みしめる。 「兄さんはロス様に見捨てられたら、きっと壊れてしまう。 傍にいることだけが想いの表現じゃない――それはオレの表現です。兄さんは違う。ロス様の傍にいないと駄目なんです。 ロス様が人形のように生きてきた兄さんに命を与えたんです。ロス様がいなかったら、兄さんはここにいない。 もし、カイリ様に生涯お仕えするくらいなら、兄さんはロス様の従者のうちに命を捨てます」 「そんな」 「嘘だと思いますか? 誰よりも一番近くで兄さんを見てきたロス様なのに」 エドは真っ直ぐだ。どんなに主人として相応しくなくても、僕を主として崇める。 その頑なまでの決意が変わらぬものだとしたら……。 「本当なら、ロス様にこんな話をするつもりはなかったんです。部屋に入るそのときまでは」 さっきのエドを見て、ユーリに何か思うところがあったんだろう。 「カイリ様にはロス様のお気持ちを自分の元に留めておくように、申しつけられていました」 カイリがそんなことを……。 ユーリはいつから気付いていたとは言ってないけれど、もしかしたらこの交換の最初から僕の気持ちは知られていたのかもしれない。 「カイリ様が望むならそうしようと思ってました。カイリ様と兄さんが組めば理想的な主従関係ですから」 哀しそうに笑った後で、ユーリはきゅっと唇を結んだ。 「でも、本当にカイリ様のことを考えるなら兄さんは薦められない。兄さんの心にはロス様しかいないんです。カイリ様のために、兄さんは何一つ行動しない。それじゃ、駄目なんです。オレは安心して兄さんにカイリ様を預けられない。 それに、……兄さんには幸せになってほしい。大切な家族だから」 カイリはユーリにとって唯一無二の主人。 エドは大切な家族。 ユーリにとって僕は、カイリの兄か、それとも兄の主人なのか。 どちらになるのか解らないけど、それは酷く遠いものに感じられた。 「オレはロス様に兄さんを守ってほしいと思ってます」 「僕に?」 「ロス様にしかできないことです。兄さんの心を守ることは」 気持ちがぐちゃぐちゃで、ユーリに頷けない。いくらユーリの頼みでも、簡単に首を縦に振ることはできなかった。 「申し訳ありません、差し出がましいことばかり伝えてしまって。ロス様なら許して下さると、甘えてしまってるんですよね、オレ。本当に自己中心的ですよね」 「ううん、自分のことしか考えられないのは、僕のほうだから」 今だって、ユーリのことでいっぱいだ。こんなにユーリはエドのことを伝えているのに。 ただ目の前のユーリだけが僕の心を占拠する。 「ユーリ、僕は本当にユーリが好きなんだ」 「はい、……お気持ちは嬉しいです」 顔が見れない。 ユーリの優しい声だけが僕の耳を擽る。 (大好きなんだ) 後は声にならなかった。心の中でもう一度だけ想いを告げる。 ユーリに受け入れられることはない。それでいいと思ってた。ユーリの傍にいられることだけで、それだけで幸せなのだと。 これ以上、僕は何を望んでいたんだろう。 ぽつり、ぽつりと雫が落ちた僕の手をユーリがゆっくりとした手つきで拭う。 それから、真っ直ぐな線を描いて濡れている頬に指を滑らす。 ユーリごめん。 もう伝えないから。僕の気持ちでユーリを困らせないように努力するから。 だから、もう少し、せめてこの交換が続いている間だけは。 「カイリ様とロス様の願いです。この一年間は必ず意に従います」 一年間だけは、僕たちのわがままな願いを叶えてくれる。 ユーリは僕の傍にいてくれる。 想いは決して届くことはないけれど、手を伸ばせば触れられる距離でユーリは見守ってくれる。 ユーリと築いていた関係はふわふわの……そう、まるで雲のように決して触れられない。 ユーリとエドのそれぞれの想いを無視した強制の関係は、もろく崩れやすい骨組みだけだ。 ――でも僕は。それでも僕にはまだ、ユーリの存在が必要だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |