サンプル1 この未来だけは、絶対に変えさせないから 目の前で一人の男が泣いていた。 小学生の自分より年上の男が泣いているところなんて、テレビでしか見たことなかったからびっくりした。でも男の前に立つ【俺】は、そんな相手の姿を見て抱きしめたいって思っていた。抱きしめて、キスしてそれから――何か思っていたけど、今の俺にはよくわからなかった。 とにかく好きで好きでたまらないって思っていることだけは間違いなかった。 そこでまず俺はパニックになった。 いくら泣いていると言っても、相手はどう見ても男だった。深緑のブレザーは隣の兄ちゃんが着ている東高校の制服だ。下半身をおおっているのはスカートじゃなくて、スラックスだ。どんなに考えてみても女の子じゃない。 だけど【俺】は、そんな相手のことをとても大切に思っているようだった。 そいつの傍に近寄ると、ゆっくりと背中をさすった。触れた指先から甘いしびれが伝わってくる。背中に触れているだけなのに、なんだこれ? しばらく時間が経つと、少し落ち着いたのか泣いていた男がゆっくりと顔を上げた。 涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を見て、俺は『あっ!』と思った。今よりずっと大人びているけど、その泣いているカッコ悪い男は『俺』――鈴木里久(すずきりく)だったからだ。 何泣いてんだよ、マジカッコ悪ィの! 泣きやめバカ! 目の前にいる『俺』にどなりつけるけど、声が届かないのか『俺』はまた涙を瞳にためた。それから泣きだすのをこらえているからなのか、小さくつぶやく。 「大智、俺……」 え? 大智? 信じられない気持ちで俺は一人の人物を思い浮かべていた。大智と聞いて思い当るのはあいつしかいない。同じクラスの佐藤大智(さとうだいち)だ。 顔も頭も運動神経もいい佐藤はクラスの人気者だ。いつも佐藤の周りには人があふれている。 でも俺と佐藤は数えるほどしか話をしたことがない。 単なるクラスメイトで、友達って言えるほど親しくなかった。 それ以前に俺と同化しているのが佐藤のはずなかった。だってこの大智とやらは『俺』のことが大好きなんだ。絶対に違う。 それに【俺】が着ている制服――かなり着崩しているけど――は深緑色だ。その色が差す意味は学校も一緒だってことだ。そうすると、ますます佐藤の線が低くなる。佐藤はいつもテストで満点を取ってるやつだから、俺と同じ高校に通うなんてないはずだ。それでも大智ってやつが男って言うのは消せないけど。 大智と呼ばれた【俺】は、そんな『俺』の汚い顔面をためらうことなく形のいい指先でぬぐった。 自分でも触りたくないようなブサイクなツラなのに、戸惑いがない。それどころか、そんな『俺』が可愛くて仕方ないと思っているようだった。 「お前が無事でよかった」 また『俺』の瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝っていく。 指で拭うのが追いつかなくなった【俺】――大智は顔を傾け、それを舌でなめとった。 固まったのは俺と『俺』。 そんな様子が楽しいのか、ふっと笑いを吹きかけるかのように息を落として、今度は唇へと移動する。舌先で軽く唇をなぞり、それから優しく重ねた。 「ああああああああ!!!!!!!」 俺は絶叫して、ベッドから飛び起きた。 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。少しくすんだ壁に掛けられているペンギンのカレンダー、野球のバットにグローブ。ベッドの脇には昨日読んだ漫画が散らばっている。それが自分の部屋だとわかるまで、たっぷり数分はかかったと思う。 夢……夢だったんだ。全身の力を抜いて、思いっきり息を吐き出した。 自分にキスする夢なんて、最悪だ! しかも夢の中で俺は男になっていた。大智と呼ばれる男に! そのことに泣きそうになってくる。俺、どこかおかしいのかもしれない。 手の甲で額をぬぐうとじっとりとぬれていた。額だけじゃない。胸元も汗ばんでいる。 それが冷や汗だと気付いた俺は、少し震えてる手を押さえつけるようにして握った。 [次へ#] |