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恋人ごっこ1



その日は朝からついていなかった。

まず目覚まし時計が止まっていた。それから、朝食も食べずに全力で走ったものの間にあわず、今月5回目の遅刻をした。5回遅刻すると、放課後に漏れなく学年主任足立の小言が待っている。校門で俺を出迎えた足立は実に楽しそうだった。

不運はまだあった。全速力で学校に向かっている途中、音楽プレーヤーが地面に落下し、ご臨終した。残骸となったプレーヤーは、俺のバッグの中で長き眠りについている。買い替えるにもお年玉を使いきってしまって、先立つものがなにもない。当分、耳が寂しくなる登下校が決定した。

さらには急いで家を飛び出したことで、1時間目の体育で使うジャージを忘れた。冬休みだからと、4か月振りに家に持って帰ったのがあだとなった。朝のホームルームが終わった瞬間、遠く離れた友達の教室まで走り、何とかジャージを借りてきたが、疲労はピークに達していた。そんな俺を待っていたのが、マラソン授業だ。朝食も食べずに挑んだ俺の状況がどんな惨劇だったかは想像に任せる。

もうなにもしないに限る。

そう心に誓って、その後の授業は寝ていようと思ったのに、そんな日に限って出席番号と日付が一致して、よく当てられた。

呪われたような一日の最後に待っていたのは、まさに厄介としか言えない出来事だった。



時は放課後、HR後。

いつの間に近づいていたのか、正面にクラスメイトの江崎東眞(えざきあずま)が立っていた。雑誌にも何度か載ったことがあるという美麗な顔が、俺――志麻悠斗(しまゆうと)を見下ろしている。

4月に同じクラスになって10か月が経過したが、話したのは片手で数えるほどしかない。関わり合いになる機会なんて、授業で強制的に何かをさせられたときにしかない。関係性はクラスメイトというだけの酷く希薄なものだ。

何の用事だといぶかしむように見上げた俺に、江崎はその形のいい唇を持ちあげた。

「オレ、志麻のことが好きなんだ。付き合って?」

人が少なくなり始めたとはいえ、まだまだクラス内に人は留まっている。喧騒に包まれた教室内が瞬時に静まり返った。

「は?」

全く理解できない、いやしたくもない日本語に俺は思わず問い返していた。

「返事はバレンタインデーでいいから。まずは恋人前提の付き合いから始めよ」

見下ろす瞳は、俺の反応を観察するようにじっと見据えられていた。江崎は淡々と告白を重ねる。そこに熱は全く感じられない。

「東眞、だいたーん」

「志麻が驚いてるぞ」

「えー、東眞とだったらあたしが付き合いたいー」

「志麻ー、あずっちの男気買ってやれよー」

一瞬の静寂に包まれたクラスは、次第に賑やかさを取り戻していく。この突然の告白に驚くどころか、周囲から起こるのは状況を面白がる声ばかりだ。それをいさめるように、江崎は手を大きく振りかざした。

告白という一大イベントを起こしたのに、江崎は薄く笑っているだけだ。状況を楽しんでいる、そんな風にも受け取れる。

実際そうなんだろう。

状況を把握し、分析できる程度には俺も冷静だった。それほどクラスを包む空気も、江崎に対しても違和感があったともいえる。

『男』が『男』に『告白』をしたにも関わらず、テレビのバラエティを見ているかのような周囲のリアクション。おそらく江崎は何らかのゲームの実行犯、そしてクラスメイトはその共犯と考えれば、この状況に対して納得できる。

いつもクラスの中心でお祭り騒ぎをしている江崎だ。今回も『面白いことを思いついた』というはた迷惑な遊び心だけでこんな突飛な告白を起こしたんだろう。

巻き込まれた自分はいい迷惑だ。関わらないに限る。

「断る」

「ま、そう言わずに付き合ってみてよ。オレ、結構お得な物件だと思うなあ」

「同性の江崎をそう言う意味で好きになれると思えない」

「なんで? 志麻ってオレのなにを知ってる?」

「何も知らないけど」

「だろ。だったらわかんねーじゃん。それにオレ、そう言われると逆に燃える性質(たち)だから」

自分でも眉間にしわが寄ったのがわかった。

どうしたらいい。同じ日本語を話しているはずなのに、言葉が通じない。

「志麻を絶対落としてみせる」

囃したてる口笛がどこかから聞こえる。堂々とした江崎の態度は、俺にというより周りに対して宣言しているように見えた。

「迷惑だ」

「まあまあ、そー言わず。とりあえず今日一緒に帰ろうぜ。あ、そういえばお前、足立に呼び出されてたっけ。それが終わるまで待ってるから」

俺の返事は決して受け入れず、言いたいことだけ言うとさっさと江崎は自分の席に戻ってしまう。

残されたのはクラスメイトから突き刺さる好奇の視線だけだった。



遅刻5回目。学年主任からの足立からの呼び出しは、わずか1分で終了だった。謝罪からの対策提示が良かったのかもしれない、と言いたいところだが、足立の体調が最悪だったからだろう。俺への説教が終わった瞬間にトイレへ駈け込んでいった。今日一日ついていないと思ったが、それが体調面じゃないことだけは不幸中の幸いだった。足立を見送りながら、そんなことを考える。

次は江崎だ。あの面倒な案件をどうにかしないと俺の心の平穏は守られない。



階段を上がり、教室へ戻ろうとすると、中から蛍光灯の明かりが漏れていた。宣言通り江崎が待っているのだろうか。

「志麻は足立のとこか」

 あと少しで教室のドアというところで、中から聞こえた自分の名に足を止める。

「遅刻5回目で呼びだしだってよ」

「ふーん、ぼけーっとしてるもんな」

「足立、こえーからな。死ぬほど絞られてんじゃね。1時間ぐらいは解放されねーかもな」

「慰めてメロメロにしてやれよ、東眞」

「にしても見たかよ、江崎が志麻に告った時の顔」

「東眞、マジで大丈夫なのかよ」

「任せとけって。ちゃんとバレンタインにはあいつのほうから好きって言わせてみせるから。それより、お前らちゃんとわかってんだろうな」

「わかってるって。お前が志麻をちゃーんと落とせたら5万渡すって」

「そういや田村が泣いてたぜ。嘘でも男とお前が付き合うなんて嫌だって」

「いっそ田村にしてやればよかったんじゃね」

「田村ねえ。あいつ巨乳だけど好みじゃねーんだよな。つか賭けにならねーだろ、オレに惚れてる田村じゃ」

「難易度高い方が燃えるってやつー? 志麻は高そうだな」

「江崎のモテっぷりが男に通じるのか、さあその結果は? ってね」

「でも本当に志麻を落とせて、本気にさせちゃったら大変だぜ、江崎」

どっと下卑た笑いが起こる。酷く耳障りだった。音を立てないように、細心の注意を払いながらそっとその場を離れる。

読みは当たっていた。けれど想像よりはるかに不快だった。問い詰めるのは今じゃない。それだけ決めて、俺はその場から離れた。



30分ほど時間を潰してから教室に向かうと、他の奴らの姿は消えていた。

開けっ放しのドアから中を伺えば、教室内には江崎が一人残っている。俺に背を向ける形で机の上にだらしなく座り、足癖悪く俺の机の脚を蹴っている。ガンガンという鈍い音が一定の間隔を開けて教室に響いていた。あいつは俺の机に恨みでもあるのか。

「本当に暇なんだな、江崎。嘘の告白をするぐらいだしな」

「っ!?」

大げさなぐらいびくりと江崎の身体が跳ねた。俺の気配に全く気付いてなかったらしい。揺れていた足の動きが止まり、驚きで大きく目が見開かれている。その反応に少しだけ憤っていた感情が落ち着いた。

「全部聞いてた」

「ぜ、全部って、どこからどこまで?」

江崎の声は少しだけ震えていた。ここでしらを切れないあたり、騙し慣れていないし、詰めが甘すぎる。

「バレンタインに俺が江崎に告白したら5万貰えるって話」

「……マジかよ」

さっき聞いた話を短く伝えると、言い逃れできないと悟ったのか、江崎はぐしゃっと整えられていた髪を無造作に掻きあげた。それから教室の前方にある丸時計に目を移す。

「数時間で終わるとか、あいつらになんて馬鹿にされるか」

悔しそうに唇を噛む。

嘘がばれても心配しているのは自分の身。騙そうとした俺に謝罪すらない。人の気持ちを慮ることができない最低な男だ。なんて厄介な奴に俺は絡まれたんだろう。相手をするのもめんどくさい。

「なあ、お前にも取り分渡すから、このままオレの言うこと聞いてくれない?」

自分の名誉を守ることにしたのか、ついには俺を懐柔すべくそんなことを言いだした。

「嫌だ」

「そう言わず、頼むよ」

「冗談じゃない」

「オレがこんなに頼んでんのに」

「どこの世界に自分を騙そうとしたクズ野郎の手助けするバカがいるんだ」

「……志麻、お前意外と辛辣だな」

「褒め言葉として受け取っておく」

ふとそこで思い出した。この賭けの取り分を。そういえば今日音楽プレーヤーが壊れた。買い替える金はない。小遣いを貯めたとしても数か月かかる。もし5万円あれば性能がいいものを買って、さらにお釣りが出る。考えれば考えるほど、それは江崎の馬鹿な行為に、付き合ってもいいと思えるぐらいには、魅力的だった。

「……まあ、乗ってやってもいいか」

「マジ?!」

「よく考えたら、俺にとっても悪くない話だった」

「あ…ああ。そうだよな。一時的とはいえ、このオレと付き合えるなんてステータスだしな」

「なにを言ってるんだ。俺にとってお前はクズだ。ステータスとか頭がおかしいのか」

「――んだと!」

「だってそうだろ。たった5万円で俺の心を弄ぼうとしたんだ。それがいいことか悪いことか、高校2年になってもわからない奴をどうして良く思えるんだ?」

「そ、それは、まあ、そうなんだろうけど」

しどろもどろになり、江崎の目が泳いだ。

「取り分は俺が10割。それで手を打つ」

「10って全部じゃねーか!」

「良かったな。俺が付き合うことで江崎の友人からの評価は守られるんだ。それはお金じゃ買えない」

わざとらしいぐらいにっこりと微笑んでやれば、ひくりと江崎の顔が引きつった。

「志麻……オレ、お前に対する評価変えるわ」

江崎の中でどういうカテゴリにいたのかわからないが、見くびられていたことだけは確かだろう。

「それはどうも。俺もお前の評価がゼロからマイナスになった。おめでとう」

「……嬉しくねーし」

 江崎が頭を抱えているのを、告白されたときとは反対に俺が見下ろす。

 うなだれていた江崎はそれでも拒絶する気はないらしく、お願いしますと蚊の鳴くような声で呟くと片手を上げた。

「交渉成立だ」

 掲げられた手を右手で軽く叩く。それはスタート合図のように、ぱんっと小気味いい音を響かせた。



こんな風にして、俺と江崎の恋人ごっこがスタートしたのだった。




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