番外編(大輔×春寿/バレンタインデー話)
2月14日。バレー部の部室内は実に荒んでいた。
「今日は時間ギリギリまで練習だ。まさか用事があるなんて言い出すやつはいないだろうな!」
だんっと古びた机を工藤部長が両手で叩く。いつにない迫力だ。
「モテないアピールはむなしいぞ」
据わった目で部員たちを睨む部長の横で、狭山先輩が肩を竦める。
「うるせえ! 男子校にいて彼女ができるか! 義理チョコですら貰えない俺の気持ちはみんなわかるはずだよな!? なあ、秋山?」
ねっとりとした部長の声に身震いする。――部長は覚えている。僕が隣の家に住む社会人のお姉さんから義理チョコを毎年貰っていることを。去年、ホワイトデーにお返しを買っているところを目撃されたんだ。
「秋山も家族以外からは一つも貰えないよな」
「あ、えと、その……すみません、隣に住んでいるお姉さんから」
毎年義理チョコを貰っている、と最後までは言えなかった。工藤部長はにっこりと笑顔を浮かべると、グラウンドを指差した。
「今のうちにカロリー消費してこい。グラウンド3周だ」
スニーカーに履き替えていると、狭山先輩が僕の肩を叩いた。
「モテない上に八つ当たりとか最高にカッコ悪いよな。ごめん、秋山が走っている間、ちゃんと現実を見せておくから」
「あ、いえ。あの、狭山先輩、あまり部長を」
「わかってるわかってる、そんなにはいじめない」
狭山先輩の【そんなに】は信用できない。それは日々、【そんなに】キツくない練習だからとか、【そんなに】辛くないからとか言われている僕にはわかる。心の中で狭山先輩を止められませんでしたと謝りながら、スニーカーの紐を縛りなおす。
部室のドアを開けて、グラウンドへと向かう。顔にぶつかるように当たる風は突き刺すように冷たい。はぁっと息を吐き出して、気合を入れる。なまっていた身体にはちょうどいい運動だ。
グラウンドに向かうために、方向転換したときだった。
「タイミングがいいな」
それはいるはずのない相手だ。
それが表情に出ていたのか、溝口は僕の顔を一瞥すると意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「どうして俺がここにいるのか、理解できないって顔だな」
「溝口がここに来る用事なんて何もないはずだ」
「バレー部には、確かにないな」
相手にしているだけ時間の無駄だ。早く走ってこよう。すぐさま気持ちを切り替える。ここに溝口がいたところで、僕には関係ない。そう思い、溝口の横を通り抜けようとしたところで、それを待っていたのか溝口が力強く僕の腕を掴んだ。
「バレー部にはないが、お前にはある」
「僕に? 僕にはない」
「あいにく、お前の都合なんか知ったことじゃない。それより、目を瞑れ」
「どうして」
「時間が惜しい。早くしろ」
「僕が従わなきゃいけない理由はない」
「ここで騒いでいると、中にも伝わるんじゃないのか。お前のところの部長と会って、何も言わない自信はないが」
ただでさえピリピリしたオーラを放っている部長だ。溝口と会えばどうなるのか、それはあまり考えたくない。
仕方なく言われたとおりに、瞼を閉じる。何をされるかわからない漠然とした不安が込み上げる。突然、頤を引っ張るように掴まれ、自然と開いた口に何かを突っ込まれる。手が触れた瞬間に目を見開いたものの、楽しそうに笑って何かを押しこんだ溝口の顔だけが映った。
「な、……ん…っ?」
口の中に広がるほろ苦さ。それがチョコレートだと認識するまで数秒かかった。
「なんでチョコレートなんか」
「お前は俺に聞いてばかりだな。自分で考えろと言っただろう」
バレンタインデーに溝口からのチョコレートなんて、嫌がらせ以外に思いつかない。
「……嫌がらせだ」
「嫌がらせ、ね。まあ頭の足りてないお前ならそういう結論になるだろうな」
「っ、なんなんだよ……!」
やっぱり嫌がらせじゃないか。僕を怒らせるためだけの!
「お前のために俺が作った、世界で一つのチョコレートだ」
「……は?」
呆然とする僕に、溝口はさっき僕の口に押し込んだ指先を舐める。
「Happy Valentine’s Day.With much love,your secret admirer.」
「え、な、なに?」
流暢な英語が溝口の口からするりと紡がれる。僕が聞き取れたのはハッピーバレンタインデーだ。後半の意味不明さに思わず聞き返してしまう。
「お前は頭も耳も悪いんだな。救いようがない」
ニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる溝口は、絶対に僕が聞き取れないことを前提で話したに違いない。
「さて、用事は済んだ。お前はこの寒空の中、バカみたいな走りこみでもしてくるんだな」
「言われなくても!」
どこまでも不愉快だ。こんな嫌がらせのために、わざわざチョコまで作るなんて溝口のほうがどうかしてる。いや、本当に手作りかどうかすら怪しい。僕を戸惑わせて楽しんでいるだけかもしれない。
溝口はそれ以上何かを言うことはなく、ただ愉快そうに笑みを浮かべて校舎へと戻っていく。
ほろ苦く、けれどどこか甘さの残る味わいだけがいつまでも口の中に残っていた。
***
ハッピーバレンタインデー。
愛を込めて
密かにあなたを想ってる者より
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