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その呟きに僕は、何とも言えない焦りを感じた。
マコトやハクに『頼ることなくやっていきたい』と言ったことを溝口が呟いたことで思い出したからだ。
「……それが、なに」
自分でも頼りないぐらいに弱々しい声が出る。
どくどくと、早い鼓動。じんわりと汗ばむ掌。渇く喉。
溝口は唇の端を持ち上げながら、僕の様子を観察するように見つめる。
「いや? そう思っただけの話だ」
わざわざ口に出して僕に伝えているのに、そう思っただけ、なわけない。
溝口が何をしたいのかが掴めず、困惑したまま、手元だけを動かした。
束になった紙を取り出すと、その中を一枚一枚探していく。
「年間スケジュールが見つかったら、次は備品の状態が知りたい」
どこから探られてしまうかわからない。
そう思った途端、溝口と会話することが怖くなる。
そんな態度を見せてしまえば、きっと不審がられてしまうのに。
「備品は老朽化が進んでいる物もあるから、ちゃんと説明する」
今、僕と対峙しているのは、溝口。ハクじゃない。
よし、っと心の中で気合を入れ直すと、僕は見つかった年間スケジュールを溝口へと差し出した。
それから溝口を体育倉庫に案内して、ネットやボール、ボールかごの状態を見てもらう。昨日部長たちとチェックし直したばかりだから、主張するところはわかってる。
どこまで部員じゃない溝口にわかってもらえるのか不安だったけど、説明しなきゃ何も始まらない。
溝口は僕が話している間、聞き役に徹し、口をはさむことはほとんどなかった。
そのこともあって、説明自体は短時間で終わったと思う。
ただ、上手く伝えることができたかは、最後まで自信がなかった。
***
一日だけ、という僕の願いも虚しく、予算編成が一日だけで終わることはなかった。
説明をし終えて部室に戻ると、溝口によってまた約束を取りつけられた。今度は部室ではなく、情報処理室での待ち合わせだ。
今日は本当なら部活の活動日だったけれど、僕はこの予算が終わるまで部活は免除されることになった。まだもう一日あって、と話した時のみんなの表情を思い出すと切なくなってくる。主に同情の成分で出来ていたみんなの顔は、自分がいかに厄介事と関わってるのかがよくわかった。
白を基調とした室内は清潔感にあふれ、どことなく落ち着かない。
端の目立たない席に腰をかけると、僕は天井を見上げた。
「早いな」
ガラっと音を立てて後方のドアから入ってきた溝口は、こつこつと、固い床を鳴らしながら僕の元に近付く。昨日とは違い、銀フレームの眼鏡を着用している。
「お前が言ったからな。好きなんだろう?」
眼鏡…と思った僕を見透かすように溝口が笑った。
「そういうわけじゃないって言ったのに」
なんでそんなに拘るんだ。
それにしても、まさか連続3日も続けて溝口の顔を見続けることになるとは思わなかった。
予算って僕が思った以上に大変な作業だ。
溝口は僕の横までやってくると、キーボードの上にファイルを置く。
「早速だが、バレー部の予算をまとめた。中身を確認しろ」
僕は言われるままにファイルの中からA4サイズの紙を取り出す。
乱雑な手書きの文字で書かれたそれは、細かい数字が欄を埋めていた。そして、金額の横にある適用欄にはどうしてそれだけ必要なのか、納得できるような理由がしっかりと書かれていた。
溝口は感動するぐらい、予算を要望以上にうまく配分していた。勿論決められた予算額は変わっていない。限りある中で抑えるところは抑え、使うところには惜しみなく使っている。
「凄い。正直、僕たちが組んだ予算よりずっといい」
溝口は人に厳しいけれど、指摘できる分だけの実力が伴っているんだとしみじみと思う。
「当然だろ。この俺が組み直した予算だ。文句が出てたまるか」
横柄な態度もこの時ばかりは気にならない。
だけど、そのあとの言葉だけは聞き捨てならなかった。
「データ化はお前がやれ」
「僕が?」
「そうだ。俺が全てをこなしてもいいが、一人で行うと間違えを見逃している可能性がある。お前でもチェックをしながら、エクセルに打ち込む作業ぐらいなら簡単だろう。時間が押してる分、データで貰えば短縮にもなるしな」
前に提出した書類は部長の手書きだった。
最終的にそれを溝口がパソコンで打ち込んで、データ化する予定だったんだろう。
敢えて最初からデータにしなかったのは、第三者にチェックさせるためなんだろうか。
元々バレー部でやらなきゃいけない予算だ。僕が打ち込むこと自体に不満はない。
だけど、データ化となると気になる点が一つ。
「いつまでに」
「今日中に」
「ええっ!?」
悲鳴のような声が出てしまう。
リアブレで人よりもパソコンに触れる機会が多いとはいえ、僕のタイピング速度はあまり上達を見せることがなかった。
数日、時間が貰えるならまだしも、今日中というのは終わるのか怪しく思えてくる。
僕の悲鳴を黙殺するように、溝口がパソコンの電源を入れた。
目の前のパソコンの画面が明るくなり、起動画面が表示される。
「フォーマットは生徒会の共有フォルダに入っている予算請求用のエクセルデータを使え」
「ここのパソコンから生徒会のフォルダが開けるんだ?」
「フォルダは共有化されているからな。学院内のパソコンならどこでも閲覧可能だ」
指示どおりにフォルダを開いて、エクセルデータを画面に表示させる。
細かな科目ごとに区切られた予算の内訳に、目を瞬かせる。
戸惑ってはいられない。
なにしろ時間がない。
溝口から渡された予算案を、たどたどしい手つきで打ち込んでいく。ひとつひとつ慎重に入力していると、僕の横で画面を眺めていた溝口が嘆息した。
「遅いな」
「どうせ、溝口みたいに早くないよ」
ブラインドタッチなんて夢のまた夢だ。というより、もう僕には無理だと諦めている。
「へえ?」
溝口が横から身を屈めて僕の顔を覗き込んだ。
あまりに近くに寄られて、身体を引く。
「近いよ、溝口」
そんな僕の抗議も気にせず、溝口は淡々と告げる。
「お前、俺のタイピングをどこかで見たことがあるのか? 俺は生徒会役員の前と、リアブレでしか披露したことがないんだがな」
「……」
血の気が一気に引いた。
フレームの中で目を細めている溝口の視線から逃げるように、目を背ける。
違う、駄目だ、逃げたら、バレる。こんな態度、よくない。
落ちつけ、冷静になるんだ。
まだ言い逃れできる。
気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと深く息を吐き出す。眼前には、顔を寄せて鋭く詰問してくる溝口がいる。
「なあ、教えろよ。お前はどうしてそう思った?」
「……遅いんだ、他の人よりも。だから、きっと溝口だって僕よりかは早い。そう思っただけだよ」
「ああ、そう。でもそれなら、まるで知っているかのような口調はおかしいよな」
すっと、なぜか溝口が眼鏡を外した。
どうして外したのかわからず、僕は制服の胸ポケットに眼鏡をしまう溝口の仕草を目で追う。
「それは、…言い方を間違えただけで」
「なあ、秋山。何を焦っている?」
「焦ってなんか、いない」
「嘘だな。何かやましいことでもあるのか? 例えば、俺に知られたくないこととか?」
矢継ぎ早に問われて、考える間もなく頭の中が真っ白になる。
どうする? どう回避する?
口で勝てる相手?
どうして僕は、溝口に近付いてしまったんだろう。あれだけジェイクに協力してもらって、やっとパーティーから抜け出せたのに、こんなにも簡単に…!
あまりに馬鹿過ぎる自分に吐き気が込み上げる。
視界の隅で、机の上に置かれた溝口の手が見えた。
椅子に座っている僕を見下ろすように、姿勢を正した溝口が立っている。
「秋山」
見上げた僕を影が覆う。
一連の行動の意味を考える間もなく、唇に柔らかな感触が触れた。
目の前には、切れ長の瞳が僕を捉えている。
何が触れているのか。それを悟った瞬間、僕はガツッと鈍い音を立てて、拳で溝口の頬を殴っていた。
溝口は痛そうな素振りは見せず、少し乱れた髪を億劫そうにかきあげて唇を笑みの形に歪めた。
「何を…っ!?」
慌てて椅子から飛びのき、溝口から距離を取ると、触れた唇を手の甲で力の限り拭う。
急いで立ち上がったせいで、回転椅子がぐらぐらと揺れていた。
「意外に、乱暴だな」
溝口はそんな僕の態度も気にせずに、ただ愉悦そうにくっくっと笑った。
全く悪いとも思っていない態度に、怒りがこみ上げてくる。
嫌がらせにしては、悪質だ。凄く……!!
「なんでこんなこと…!」
「お前にしたかったから、した。それだけだ」
したかったからで勝手にキスをしていいとでも!?
あまりの言いように、溝口を睨む目つきに力が籠る。
「最低だ!」
「最低か。随分と可愛い反応だな」
「ふざけるな」
怒りをほとばしらせながら僕が吐き出すと、溝口は肩をすくめた。
「……手っとり早いだろう、自分の気持ちを確かめる手段としては」
「は…?」
自分の気持ち? 僕の気持ち…?
意味が全く解らない。
「『秋山春寿』に、興味が沸いた」
「……っ」
喜悦そうに笑う溝口に、ぞくりと悪寒めいたものが走る。
「お前のその速度じゃ今日中は無理だろうな。データは一日待ってやる。出来上がったら連絡しろ」
目の前に小さな紙切れが差し出された。
受け取りたくはなかったけど、この予算は僕だけの問題じゃなかった。
渋々手を伸ばして、紙を受け取る。
「じゃあ、また明日な。――春寿」
溝口がいなくなった後。
僕はもう一度手の甲で唇を拭うと、手の中にある紙を開いた。
そこにはいつの間に書いていたのか、携帯のメールアドレスと電話番号が書かれていた。
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