プロローグ
僕が5才のとき、事故で優しかった父と母はあっけなくこの世を去った。
空手道場を営む、近所でも評判の気むずかしい母の父。
祖父に引き取られ、母そっくりの顔をした僕をそれはかわいがって育ててくれた。
鬼の形相が孫の前では相好が崩れると、祖父を知る者は口々に言ったそうだ。
僕も祖父が大好きだった。
祖父の仕事は空手道場を経営していたが、指導自体は若手の師範代たちにまかせていて、祖父が自分で指導することはほとんどなかった。
ただ月に何度か、大きなお屋敷に行ってとても怖いおじさんたちに空手(おじいちゃんは武道って言ってたけど)を教えていた。
僕はいつもそのお屋敷に行くのがとても怖かった。
祖父は険しい顔をして自分より大きなおじさんたちをどんどん倒していくんだ。
そして大きな声を出して怒って、投げられたおじさんたちも何度も立ち上がって祖父に向かっていく。
大きなお屋敷の道場の廊下の隅に隠れて、祖父の仕事が終わるまで、いつも僕はおびえながらその様子を見ていた。
仕事が終わると祖父はこの大きなお屋敷で一番偉い人に会いに行く。
海藤のおじいちゃんだ。
初めて海藤のおじいちゃんに会ったときは怖くて泣いてしまった。
祖父のお友達らしいけど、とにかく目が怖くてふるえが止まらなくなって祖父の陰に隠れて泣いてしまった。
祖父と海藤のおじいちゃんたちはいつも囲碁をしながら長話をする。
その周りには黒い服を着た怖いおじさん達が少し離れて座ってその様子を窺っているいる。
僕はみんなが怖い。
早く帰りたいのに祖父は楽しそうに囲碁を続ける。
居場所がなくうつむいていると、海藤のおじいちゃんから庭に出て遊んでおいでと言われた。
庭園は広くて森のようだった。花を見たり、ちょうちょを追いかけたりして遊びながら歩いていると、随分屋敷森の奥まで来てしまった。
帰り道が分からない。
「どうしよう・・・」
うっそうと茂る木々に太陽の光も遮られ、昼なのに暗い屋敷森に迷い怖くなった5才の僕は目に涙を浮かべた。
ーーー彼と出会ったのは偶然だったーーー
「誰だ」
突然背後から声をかけられてびっくりして振り返ると、そこには不審気に僕を見る背の高い学生服姿の男の人が立っていた。
「何をしている」
5才の僕から見たら、大人に見える学生服を着た男の人にただ驚いて僕は固まってしまった。
「どうやってここに入った」
聞かれている意味も僕にはよく分からなかった。
機嫌の悪そうな男の人は一歩一歩僕に近づいてくる。
男の人と視線が合う。僕の顔を見て目を細めた。
「お前、 泣いてるのか?」
ーー泣いているのかーーと聞かれて自分が涙を流していることに気が付いた。
男の人は地面に膝をついて目線を僕の高さに合わせて、僕の顔をのぞき込む。
「迷ったのか?」
聞かれて初めてうなずいた。
「女・・・?いや。、男か?ん?どっちだ」
そう言われたとき、僕はやっと言葉を発することができた。
「ぼ・・ぼく」
「ぼく?ああ、男か」
無表情で僕を見つめながら、男の人は手で僕の涙をぬぐってくれた。
男の人の手が優しく頬をなで、それがとても心地よく不思議と安心した。
「名前は?」
すぐに答えることができずに男の人をただじっと見つめる。
「俺は たかや 。 かいどう たかや。お前の名前は?」
「し・・しずか、あさかわ しずか」
「しずか?名前も女みたいだな」
無表情だった男の人は僕の名前を聞いて少し笑った。笑った顔がとても綺麗だった。
「おいで しずか」
男の人は僕の手を優しく握った。
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