小説
y第22話
「竜也、キャッチボールしようか!」
父の誘い文句はいつもこれだった。
むしろこれ以外聞いたことがないと思う。父はいつも幼い俺を河川敷や公園に連れ出して、お互い拙い動きでキャッチボールを楽しんだのだった。
「おー、うまくなったな竜也!監督にも誉められたんだってな、1年の中じゃ一番うまいって!」
「うん、父さんもうまくなったよ」
「本当かー?!」
父は無邪気に笑う人だった。元々感情を表に出すことはあまりなく、比較的穏やかな性格だったらしいが、俺の記憶にある父はいつも楽しそうに笑っていた。
父の仕事がない日は一緒に泥まみれになって、毎回母に怒られるのが日常になっていた。
でも父も俺もそんな母が大好きで、遊んだ帰りは二人家路を急ぎながら、夕ご飯のメニューを予想して歩いた。
「今日は何かな、父さん分かる?」
「今日はきっとビーフシチューだ、それもじゃがいもが沢山入った熱いやつ」
「本当に?」
「本当だとも、父さんが嘘を言ったことがあるか?」
「ううん」
父の予想は必ず的中した。母はいつも驚いて、父と俺がずっと見張っていたのではと問い詰めてきたが、父はいつも嬉しそうに俺に
「な?当たったろ?」
と話しかけてくるのだ。
父が嘘を言ったことは無かった。
「父さん?」
ぼんやりした記憶の中覚えているのは、父がお腹を押さえて苦しそうにしゃがみこむ姿と、父の投げ損ねた軟球が草むらを転がる光景だった。
「竜也、今日父さんちょっとしんどいから、キャッチボールまた今度の休みでいいか?」
「いいよ、いいから、早く帰ろう!」
父の腰に腕をまわし、引き摺るようにして父を家に連れていったのを覚えている。
帰って母が呼んだ救急車で病院まで親子揃って向かった。
それ以来父が家に帰ることは無かった。
ガンだったそうだ。
煙草も酒もほとんど嗜まない人だったのに、と、母方の祖母が何回忌目かのお通夜で言っていた。
食道だったか肺だったか忘れたが、入院してから父の身体は痩せ細っていく一方だった。
普通病棟から特別治療室へ移るのに時間はかからなくて、母もこの頃から何となく具合を悪そうにしていた記憶がある。
最後に父に会ったのは、薄寒い空調の中機械が沢山積まれた部屋で、抗菌用のビニール越しにだった。
透明のビニールの向こうで微笑む父がまるで他人みたいで、少し怖かったのを覚えている。
「…竜也」
かすれた、聞き取り辛い父の声。
「ごめんなぁ、キャッチボール、行けないかもしれないよ…父さん」
俺の後ろで立っていた母が泣き崩れた。
「早く治しなよ、おれまたうまくなったよ」
「うん、そうだなぁ、そうだなぁ竜也…」
父がビニールの隙間から手を伸ばしてきて、俺の手を掴んだ。
病気で痩せ細り弱々しいはずの父の手が俺の手を握る力があまりにも強くて、また怖くなった。
母もその上に手を重ねた。
「ごめんな竜也…大好きだよ、ごめんな」
母がまた泣き出した。
「咲子、迷惑をかけた、すまない…すまない…」
「いいえ…いいえ!」
「竜也、母さんを頼むよ」
母の手に込める力が強くなった。
「父さん嘘ついちゃったなぁ…ごめんな…竜也」
父が俺に何の嘘をついたのか分からなくて、俺は何も言えなかった。
その時はずっと、父と母の手の力が怖くて、仕方なかった。
「愛してる」
父が母と俺に残した最後の言葉。
ずっと一緒なんだと思っていた。
父の存在。
何となく泣けなくて。
父が入る墓がある寺に、葬式の前に母と挨拶に行ったとき、自分と同い年くらいの男の子が父親に手をひかれて墓地へ向かうのが見えた。
あいつも自分と同じなんだろうかと考えると、その男の子が泣きもせず大人達の中ひとりで立っているのが見えて、余計泣けなくなった。
入って一年も経っていない野球をやめた。
母の負担になりたくなくて家の手伝いをした。
父との約束を守った。
これが普通だった。
普通になった。
普通でなければならなかった。
悲しんでる暇なんてなかったのかもしれない。
「父さん」
浩仁が見せた父のグローブを抱きしめて、
父のために初めて泣いた。
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