エレナ
その時俺は、ちょうどダイニングの掃除をしていた。
司が帰ってくるまでに窓を拭いて床掃いて、テーブル拭いて椅子拭いて(座面だけじゃなくて、脚も拭く)。クロスを掛けてテーブルセットまでしなくちゃいけない。
今日で司の大学通いが終わるから、「ご馳走にしましょ」と久良さんが張り切っていた。麗さんも手伝って二人で作ってるみたいだけど、材料がどう考えても一人分じゃない。絶対「まかない」と称して自分たちも食べる気だ。いや、俺も食べるからいいけど。
メインが確か、どこぞの国産牛だと言っていた。
じゃあクロスはベルベット赤!……にしようかと思ったけど、夏っぽくないから止めよう。落ち着いた薄い青のクロスにレース被せようか、でも青は食欲減退色だから……と悩んでいたら、インターホンの音が聴こえた。作業を中断し、ダイニングを出て玄関まで走る。
そこには女の人がいた。
オレンジブラウンの巻き髪に麦わらのハット(カンカン帽、とかいうんだっけ)を被り、ミニ丈の白いレースワンピを着てる。
黒いバレエシューズを合わせた脚はすらっと長く、身長なんか俺より高いかもしれない。
綺麗な人。
「………あ、失礼しましたお客様!」
一瞬見惚れてしまい、慌ててお辞儀をする。
今日の来客の予定はない。急なお客様はリビングに通してから司にメールで連絡をする、と「来客時の心得」を思い起こし、俺は頭を上げた。
「申し訳ございません、ご主人様は外出中で御座いますので―――……」
「おじゃましまーす」
「え」
何度も繰り返し覚えさせられた言葉を反芻する俺の横を、あっさりスルーしてくれた美女。しっかりした足取りは、迷うことなくリビングへ向かう。
「あ、あの!!」
「晶、どうしたの?」
後を追いかけようとしたとき、ちょうど厨房から久良さんが顔を出した。
「あ、何かお客様が……」
「あら。今日はお客様いらっしゃらないはずなのに」
小首を傾げて美女の消えたリビングに入っていく久良さんに続いて、俺もソロソロとついていく。
件の美女は、ソファの上でのんびりくつろいでいた。
「あ、あちらの方が……」
「エレナ様?」
「え?」
久良さんが驚いた顔をすると、「えれなさま」はニッコリ笑って手を振った。
「お久しぶり、久良さん」
「お久しゅうございます。失礼ですが司様にアポイントメントは……」
「取ってないの。連絡入れてくれる?」
「畏まりました」
久良さんは深々とお辞儀すると、事態が読めない俺の腕を掴んでリビングから出る。
必然的に俺も引きずられてリビングを出た。どこにそんな力が、ってくらい強く掴まれた腕が痛い。
リビングから見えない位置まで俺を引きずって来ると、パッと手を離し。
何と久良さんはいきなり走り出した。
「えっ!?久良さ、」
「麗ちゃん!!」
そのまま厨房まですっ飛んで行き、初めて聞く大声で叫んだ。
俺も小走りで後を追う。
「今すぐお茶の用意!」
「茶葉は」
「烏龍を……アイスでお願い。お茶請けはクッキーとドライフルーツ」
「分かったわ」
「晶は司様にご連絡差し上げて。それと、お茶は晶がサーブして。先ほどは失礼しましたと言うのよ」
「えっ、あの」
「私は夕飯の材料を買ってきます。一人増えるから、お皿も変えるわ。あとワインがあるかも確認して下さい」
いつになく機敏な久良さんに、俺はおろおろするばかり。麗さんは早速お湯を沸かしながら茶葉を探している。
背伸びして戸棚を探る麗さんの動きが、
「麗ちゃん、ワインはバルバレスコのフルボディよ」
久良さんの言葉で止まった。
「…………」
「これだけは無いと困ります。ディナーに間に合えば問題はないから、先ずはワインセラーの確認をお願い」
「あのー……」
イマイチ状況が呑み込めない。
「エレナ様って、誰なんですか?」
俺が聞くと、二人が一気にこっちを見た。
ヤカンがシューっと音を立て、麗さんが気づいて止める。久良さんはその様子を見、ハッと我に返ったように言った。眉を寄せ、まるであの美人さんが恐怖の大魔王であるかのような表情だった。
「……エレナ様は、司様のお姉様でいらっしゃいます」
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