めざましぐさ
冨安幸さんリクエスト
めざましぐさ
夏もすぐそこまで来ているというのに、その日は朝から天気がくずれてい、肌寒い陽気であった。
(火鉢はもう片付けてしまったし……屏風のぞきか誰ぞ、一太郎ぼっちゃんに、もう一枚羽織を着せてくれるといいんだが)
今にも雨が降りだしそうな空を気にしながら、小僧は朝からせっせと働いていた。
廻船問屋を営んでいるこの長崎屋は、江戸は日本橋・通町に店を構えているだけあって、朝から忙しいことこの上ない。
この長崎屋に奉公している仁吉と佐助という小僧は、実はその本性が白沢・犬神という妖である。店の跡取り、後に若旦那となる一人息子の一太郎はたいへん病弱で、その兄やである小僧達は長崎屋に来たさる夏の日より、過保護な二親にも負けないくらいに、常日頃、一太郎の心配をすること並々ならない。
(八つ時をすぎたら、旦那様か番頭さんに頼んで、あたしか佐助の仕事を切り上げてもらおう)
普通、小僧が番頭などに進言なぞできるものではないが、そこは一人息子に甘い甘い二親のことである。一太郎が心配だ、といえば喜んで離れに行かせてくれるに違いなかった。
そんなことを考えながら仕事をしていると、折よく主人の藤兵衛が店先に現れた。
何やら用事があるらしい。
「仁吉や、ちょいと頼みたいんだけどもね」
呼ばれて藤兵衛の話を聞くと、案の定、今日の仕事はひとまずいいから、離れに行ってほしいという。
「今、私が離れに行ってきたところなんだが、手習いばかりじゃぁ、一太郎もつまらないだろう。行って、相手をしてやっておくれ」
番頭には自分が伝えておくと言う藤兵衛の言葉を受け取ると、はからずも笑顔で会釈をしてから、仁吉はその場を後にした。
「ぼっちゃん、仁吉です。入りますよ」
仁吉が離れの襖を開けると、先に着せたものなのか、藤兵衛の羽織を肩に掛けた一太郎が文机に向かって座っていた。
雨戸は開いていたが、どうやら寒くはないらしい。
「仁吉……」
小僧に顔を向けた一太郎は、その両手のひらに何かを包み乗せ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
その周りには何匹かの鳴家達も集まっている。
仁吉は襖を閉めてから幼い主人に歩み寄った。
(一太郎ぼっちゃんのお顔が青い)
まさかこの天気で体調を崩したのではないかと思い、その額に軽く触れてみたが熱はない。
一太郎はその両手のひらを仁吉に差し出すようにしてから、震えた声で口を開いた。
「どうしよう仁吉……私のせいで、鳴家が動かなくなってしまった!」
「……と、言うのは?」
突然の告白に、仁吉はその秀麗な眉をひそめた。一太郎に問い返しながらもその両手のひらを覗くと、見事にのびてしまっている鳴家が一匹、目を回していた。
御歳八つの一太郎は世間一般の子供らと同じく、昼間は寺子屋に通っている。しかし、生まれながらに病弱であるが故に度々寝込んでしまうことが多いので、外へ出してもらえない日は、幼い頃からしてきたように、長崎屋の離れで手習いなどをすることがほとんどであった。
二週間前に熱を出して七日間寝込んだ一太郎は、今日も例によって、おとなしく書の練習をしていたらしい。
「そうしたらね。この鳴家が、ふざけて私の筆を取ってしまったんだよ」
折角熱も引いて離れに居るのに、一緒に遊んでくれない一太郎にほんの少し腹が立ったのだろう。いたずらに筆を持ち、離れ中を走り回るのだからたまったものではない。
「畳を汚されては困るから、すぐに鳴家を追い掛けたんだけど……」
思いの外鳴家がすばしっこいので、一太郎は思わず、体重任せに鳴家を上から抑えつけたらしい。
これがいけなかった。
筆は素早く取り上げたので畳が汚れる心配はなかったが、結果として、鳴家を一太郎が上から押し潰すような形になり、鳴家はすっかりのびてしまったのだ。
そして、間の悪いことに鳴家がのびてしまった直後、藤兵衛が離れへ自分の顔を伺いに現れたものだから、一太郎は慌てた。
「すぐに鳴家を見てやればよかったのだけど、おとっつぁんが急に来なすったから、慌てて座布団の下に鳴家を隠したんだ」
それからしばし藤兵衛と話をし、藤兵衛が離れから去った後に鳴家を見てみたところ、よほどのびてしまっているのか、一向に目を覚まさないのだった。
「ねぇ、仁吉。まさか、鳴家……死んでいないよね?」
両手のひらに乗せている小さな妖は冷たくなかった。
もちろん、死んではいない。
鳴家が一向に目を覚まさないので、一太郎は、いつもの冴えが利かなくなっているようだと仁吉は見た。
(こんなことで鳴家が死ぬはずもなし。放っておいて、構わないんだが……)
そこまでを口に出しそうになって、小僧は目の前にいる、幼い主人を見やった。
「どうしよう……どうすれば、目を覚ますかな」
一太郎に非はまったくと言っていい程無いと(仁吉は)思うのだが、まだ八つの一太郎は、自分のせいで鳴家は目を覚まさないのだと、顔面蒼白になってまで、自分よりも小さい妖のことを心配している。
最近では自分のことを“われ”ではなく“私”と呼ぶようにもなり、いちいち手をかけて甘やかす仁吉や佐助をたまに嫌がったりもする一太郎だが、やはりそこはまだ八つの幼子である。
(一太郎ぼっちゃんはもともと利発な方だけど、困っている時を見ると、まだまだ子どもだねぇ)
それがたまらなく可愛らしい。
我知らずの内に思わず頬が緩んでしまったのか、急に優しげな笑みを自分に向けてきた仁吉を、一太郎が訝しげに見上げてきた。
「仁吉?」
「なんでもありませんよ。すいません」
一太郎はしばらくじいっと仁吉を見つめて首を傾げていたが、すぐ後に両手のひらの中にいる鳴家をまた案じ始めた。が、よほど鳴家が心配なのか、いつものような冴えを使うことは困難そうであった。仁吉はそのまま、自分も良案を考えるふりをしながら、この幼い主人がどう立ち回るのか伺うことにした。
(ぼっちゃんはお優しい方だから、鳴家ごときにもこうして、深く悩まれるんだね)
これが自分の主人の善い所であり、仁吉が一太郎を敬愛する所の一つでもあった。
「仁吉」
「なんです?」
何か思いついたのか、目を覚まさない鳴家を両手のひらに乗せたままの一太郎が、兄やである仁吉の名を呼んだ。
「今日は袂(たもと)に、私のおやつを持ってるかな?」
一太郎の問いにすぐさま仁吉は感づいた。
「えぇ、ありますとも」
そう言って仁吉が袂から取り出したのは、色も鮮やかな金平糖だった。
一太郎は仁吉に鳴家を持たせて、小袋の中から一粒の金平糖を摘んだ。
色は白桃色である。
「ごめんよ、鳴家。これで目を覚ましておくれ」
祈るような気持ちで、一太郎は金平糖を妖の口内に落とした。
するとどうだ。仁吉の手の中で、ぴょんと跳ねるように、鳴家が飛び起きたのだった。
「あまい! この味は、我の金平糖!」
口内にその甘味な至福を覚えて、鳴家は目覚めた。
「よかった、鳴家! 目が覚めたんだね」
仁吉と目を合わせてから、一太郎は胸を撫で下ろした。ついでに、目を覚ました鳴家がまだ金平糖を欲しがったので、もう一粒与えてやった。
鳴家はしばらくそれを至福そうに頬張っていたが、やがて目に見えている周囲と今の自分の状況を把握し始めると、その顔がいくらか強ばった。
「あれれ。どうして我は、仁吉さんの手の中に……?」
まったくわけがわからぬと首を傾げる鳴家を見て、一太郎が安堵する。一太郎を見やる仁吉もまた、笑顔が戻った主人を前に、安堵した。
「一太郎ぼっちゃん。一体どうなってるんですか? 我はぼっちゃんの筆を、どこかに落としてしまったのですか」
「鳴家や、筆はちゃんと私の所にあるよ。先のことを……覚えていないんだね? ごめんね。私がお前をのしてしまったんだよ」
とにかく目が覚めてよかったと、一太郎はもう二、三粒、鳴家の口に金平糖を運んでやった。
「よかったですね。ぼっちゃん」
仁吉は持っていた鳴家を、一太郎の手前、そうっと畳に降ろしてやった。
「仁吉もありがとうね」
自分に笑みを見せた兄やに、一太郎もまた、感謝を述べて笑った。そうしている内にも、先程の鳴家や、その他の周囲に集まっていた鳴家達が、甘味を求めてかしましい。
「目が覚めた途端、これですよ。いいかい鳴家。それはぼっちゃんの……」
「鳴家や。ほら、皆で仲良く食べるんだよ」
一太郎は、とにかく鳴家に元気が戻ってくれて、嬉しいらしい。主人のおやつを小妖達に取られた仁吉は、しばし仏頂面を浮かべていたが、鳴家達を見て微笑む主人の顔を見ると、仕方なく苦笑した。
「甘味で目を覚ますとは……。全く、随分と風流な目覚めですね」
「ふふっ。なら今度、私も金平糖で起こしてもらおうかな」
「やめて下さいよ、一太郎ぼっちゃん。おかしな習慣がついたらどうするんです?」
佐助に言っても絶対させませんと言い張る仁吉に、冗談だと一太郎は慌てて笑った。
そんな二人の背後で、いつの間にやら雨が降り出している。どうやら小降りらしいので、雨戸はそのままでもよさそうだ。
「雨が金平糖なら、今夜は絶対、我は寝ないのに」
甘味な目覚めを味わった鳴家がぽつりと、そう呟いた。