昔語(むかしがたり) 3
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「七松さん」
離れに新しく現れた訪問者を見て、仁吉が一太郎を抱いたままその名を呼んだ。
七松と呼ばれた少年は、佐助と仁吉よりも三つか四つ程くらい年上の小僧で、一太郎にはにこやかに一礼したが、一太郎を抱いている仁吉に向かってはその不機嫌さを顔に出していた。
「遅いじゃないか仁吉、佐助。困るよ、早く店先に戻っておくれ」
そう言い放ってから、もう一度一太郎に礼をして七松は離れから去って行く。その足音が完全に消えた後で、仁吉が一太郎を畳に降ろしながら溜息をついた。
「やれ、しまった。七松さんの勘に障ってしまったようだ」
仁吉を見上げる一太郎の顔は少し不安げだ。そんな一太郎を見た佐助が「大丈夫ですよ」と言って、そのまま鳴家達に一太郎を任せると仁吉を連れて忙しく母屋へと戻っていった。
「仁吉、佐助……」
呼び止めるわけにはいかない声が、ぽつりと小さく離れに零れた。
「仁吉や、一太郎にちゃんと渡してくれただろうね」
仁吉と佐助が店先に戻ると、帳場から長崎屋主人の藤兵衛が仁吉に声をかけてきた。すぐに仁吉が答えると、藤兵衛は納得して頷き笑顔になった。隣に居た佐助も手招きして、こう告げる。
「店の方が一段落したらまた離れに顔を出してやっておくれ」
先代が病弱な孫のためにと寄越したこの二人の小僧は、一太郎当人だけでなく、すでにその主人である藤兵衛からも信頼されていた。小僧としての仕事覚えも良いし、自分の息子にも良く仕えてくれているので、今の廻船問屋で人手が足りなくなる時などないはずなのだが、多少なりとも仁吉と佐助は他の小僧と待遇が違った。
ともかくも、藤兵衛にそう言われたので仁吉は返事をしようとしたのだが、それを七松に遮られてしまう。それも、ちょうど良く。
「旦那様、一番蔵に荷が入ったそうです。手代さんがお呼びですよ」
「おや、もう着いたのかい」
小僧に声をかけられると、藤兵衛は番頭に帳場を任せて己は蔵へと向かうべく、母屋の奥に姿を消した。
その後には少し、張り詰めた空気が漂う。
「旦那様はああおっしゃられたけど、手を休めている暇はないんだからね」
自分よりは背の低い仁吉と佐助を見下ろしてそう言うと、仕事に戻れと七松は二人を促した。
「ぼっちゃまも大切です。けど店の方を蔑ろにしてちゃぁ、元も子もない」
主人が居なくなったのをいい事に、七松は番頭に聞こえないくらいの小言を言いたい放題だ。佐助と仁吉は互いに顔を合わせなかったが、どちらも己の内で「店よりも、ぼっちゃんが大事」と呟いていた。
「どうしたんだい。金平糖がこぼれているじゃないか」
仁吉と佐助が去った後で、離れの居間でじっと黙っている一太郎に、屏風のぞきが声をかけた。
「おいぼっちゃん、鳴家達に全部食われちまうぜ」
そう言ってふらりと己の屏風から出てきた付喪神は、一太郎の袂だけではなく金平糖を求めて沸いて出て来た小鬼達を指差した。だが一太郎は座って下を向いたままで、黙ったまま首を横に小さく振った。
「おい、どうした……」
屏風のぞきがそう言いかけて一太郎の顔を覗くと、とても申し訳なさそうにしてその小さな口を、ぎゅっと結んでいる。やがてその口から、震えた声を一太郎が絞り出した。
「われのせいで……兄や達は、怒られるのかしら」
幼いながらに、自分には笑みを向けていても兄や達には冷たい七松を、一太郎は感じとったらしかった。
「佐助が、われのせいで、長崎屋に居られなくなったらどうしよう」
「……いや、それは」
「仁吉が、われの傍からいなくなったら……」
そこまで口に出して、とうとう一太郎の瞳からぽろぽろと、光る雫が零れ落ちてしまった。金平糖にせっせと集まっていた鳴家達も、ぴたりとその動きを止めて、一太郎の膝元に心配そうに詰め寄った。屏風のぞきも慌てて一太郎に近づくと、自身は畳に胡坐をかいてその上に一太郎を乗せた。
「年上の小僧が年下の小僧に疎んずるなんてこたぁ、浮き世の常だろう?」
一太郎がいちいち気にすることはないと、屏風のぞきが珍しくも優しく頭を撫でてくれた。鳴家達も膝に群がり上がって、きゅわきゅわ鳴きながら一太郎を慰める。
「うん……」
一太郎にもそれはわかっていた。商家の息子として自分は生まれてきたのだ。商人としての“いろは”は、幼くとも心得ているつもりだ。
(でも……、それでも!)
それでも一太郎には、自分の大事な大事な兄や達が悪く言われるのは嫌だった。
「わかったなら、泣き止んでくれないか。あたしが兄やさん達に叱られちまう」
うんうんと、一太郎は黙って屏風のぞきの言葉に頷いた。
だがその小さな胸の内には、口には出さない、新たな決意が根付いていた。
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