をとこ冥利 4
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若だんな達が離れに戻ると、その帰りを待っていたかのように、ぎしぎしと天井が軋みを立てた。
「へぇえ、流石は大店やね」
そこは江戸。公方(くぼう)様のお膝元であるから、有り体に豪華というわけではないけれども、長崎屋の離れは凝った造りをしている。離れに初めて足を踏み入れた者が口にする台詞としては、若だんなもよく聞き慣れていた。
「仁吉、佐助、紹介するよ。このお人はね」
どうみても機嫌の悪い兄や達を相手にしながら、若だんなは早速説明しようと口を開いた。だがこれを、火鉢を挟んで若だんなの向かい側に座る仁吉が遮った。
すっと腕を伸ばして、若だんなの唇に己の人差し指をあてがう。
「にき……」
ふいな動作に驚いて、頬を僅かに赤く染める主人に優しく微笑んでから、仁吉はその指を若だんなの唇から離した。
「まずは外出の理由(わけ)を、聞かせて下さいまし」
「で、でも仁吉」
普通こういう時はまず、先の人を紹介するのが習いである。
だがどうやら手代達は、目の前に居る見知らぬ女子のことよりも、若だんなの外出の理由の方が気になるらしい。
若だんなが躊躇っていると、若だんなの隣に座る佐助も、
「あたしにも聞かせて下さいな、若だんな」
身を寄せて問い詰めてくるので、(うちの紹介はいつしてくれはるん?)と睨んでくる女子の視線から逃れつつ、若だんなは手代達に説明を始めなければならなかった。
「説明するよ……。今日は、栄吉と出掛けようと思ったのさ」
若だんなの口から出た名を聞いた佐助が、不機嫌そうに三春屋に近い木戸を睨んだ。今度兄や達と顔を合わせたら、友は小言を言われるに違いない。
誘いは栄吉からしてきたので、若だんなは尚更心配だった。
栄吉の話では、なんでも本所に、彼の父親のよしみが新しく茶屋を開いたらしい。
「なにわ茶屋という茶屋なんだけど、栄吉が言うには、そこのみたらし団子がすごく美味しいんだって」
なにわと名乗る通り、聞けばその茶屋のおかみが上方の出なんだそうで、京菓子も置いてあるらしい。
(京菓子はあまり口にしたことがないから、若だんなは興味を持たれたのか)
ただのみたらし団子目当てではないことは明白で、若だんなが行きたがった理由もわからなくもない。
「栄吉がわざわざ誘ってくれたことだし、私が出掛けられる機会は少ないから、外出しようと思ったのさ」
素直に口を割った若だんなを見る手代達の視線が痛い。
怒ったようでもあり、心配げな目でもある。
(黙っていたのは悪いと思うけど、言ったところで兄や達は、私をこの長崎屋から、出しちゃぁくれないもの)
本心のところ、若だんなは美味なる菓子よりも珍しい菓子よりも、ただ友との外出がしたかったのだ。
情けない話だが、外出の機会は少ないというよりも、ほとんどできない若だんなである。
生まれてこのかた十八になった若だんなだが、病弱なのは、その幼い頃より変わっていない。
(滅多にない機会だもの。栄吉と外出がしたい……)
ただその一心で、佐助と仁吉の目を掻い潜り、やっとの思いで一太郎は離れから抜け出してきたのだった。
兄や達はともかく、店の者やおたえに気づかれなかったのは、偶然の幸いだった。
「そんなに栄吉さんと外出がしたかったんですか」
「えっ?」
口には出さなかった思いを突然読まれたせいか、声が上ずってしまった。
尋ねてきたのは仁吉の方で、佐助よりも不機嫌そうな顔を作りながら、若だんなを見ようともしない。
「その、なにわ茶屋とやら。お望みであれば、若だんながお元気な時に、あたしらがお連れしましたのに」
今度は若だんなの目を見て、はっきりとそう告げた仁吉を、一太郎は不思議そうに見やった。
(どうしてかな。どうやら仁吉は、外出したことよりも、栄吉と出掛けたことに腹を立てているような気がするよ)
隣で木戸を睨んでいた佐助が、二人のやりとりを見て、思わず睨むのを止めて笑い出した。そんな佐助に気づいた仁吉が、これまたいっそう不機嫌になったので、若だんなは急かすように話を続けた。
「でもね、三春屋の用事で栄吉は行けなくなったんだよ」
「では本所へは行かずに、そのまま店に戻ったんですね?」
若だんなの言葉を聞いた佐助が、安心したように肩を下ろす。
「いや……あ、あのね」
「まさか、若だんな! お一人で何処ぞへ行かれたんですか」
口を濁した若だんなを見て、向かい側に座った仁吉が飛び付くように食い付いてきた。隣に座る佐助も、顔をしかめているような気がする。
そんな兄や達と相反して、仁吉の隣、佐助の向かい側で若だんなとはちょうど斜めに座っている女子は、何やらにやにやと笑っているので、若だんなは尚更気が重たかった。
なるべく兄や達の機嫌を損ねないよう注意しながら、言葉を続ける。
「折角の機会だから、深川辺りまで足をのばそうと思って、駕籠を雇ったんだよ」
深川くんだりまで歩こうとも思ったが、栄吉と出掛けられなくなったのが原因で、些か今の自分は気落ちしている。そんな状態ではと思い、永代橋の手前まで、一太郎は駕籠に揺られたのだった。
「そこから歩いて永代橋を渡ってたいたのだけど、それはものすごい人混みで……」
橋の真ん中辺りまで行って、若だんなは思いきり人とぶつかってしまったらしい。おまけにその拍子、懐(ふところ)から財布が零れてしまったのだ。
「それを拾ったのが、うちやねん」
「は……」
突然があがった声に、手代達は失念しそうになっていた女子に目を向けた。
「つまりなぁ、橋の真ん中で、若だんなに会うたんや」