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をとこ冥利 3


     3


「あたしは若だんなから、外出をなさるなんて、一言も聞いちゃいませんが」

これまた一体いつ現れたのであろうか。仁吉がにっこりと嫌な微笑を携えて若だんなに歩み寄ってきたのだった。

「仁吉……いつから居たの」

「さぁ? いつからでしょうね」

微笑を携えるこの色男は、佐助に負けずに劣らず若だんなに甘いことこの上ない心配性の兄やなのだが、厄介なことに、口を開かしてみればまたとないくらいの小言が飛び出す、言わば若だんなの説教係である。この仁吉にずいと詰め寄られての問答に、若だんなはめっぽう弱いのだ。

「佐助の質問にはちゃんと答えていただかないと。どうしたんです、 若だんな。今にも泣き出しそうな顔をなさって」

若だんなは、いっそ本当に泣いてしまいくらいだと思った。番頭と松之助に見守られる中の手代達の説教問答は、とてもじゃないが心中穏やかに聞けるものではないからだ。

(いっそ、全て兄や達に話してみようか……?)

そう思わなくもない若だんなであったが、話すのには勇気がいる上に、松之助と番頭の居る店先(ここ)では不味いと思う。
だからと言って、このまま黙りを続けるのも良くないのではと若だんなが考え込んでいると、ふと目の前に影が落ちた。
見れば、立っていた仁吉が屈んで、座っている若だんなに寄り添い身を寄せてきた。
いつものことだが、仁吉の顔が近い。目を上げて合わせたら、顔がのぼせてしまいそうなので、一太郎はそっと俯き目を逸らした。

「若だんな。あたしに隠し事をなさるんですか?」

仁吉が若だんなの耳元で、それだけ優しく、優しく囁き訊ねた。
目を合わせているわけでもないのに、不思議と若だんなの顔が熱くなる。

「……若だんな」

厳しかった仁吉の顔が、それとなく和らげになったのがわかった。厳しく問いただすのをわざと避けて、仁吉は悪魔でも優しく若だんなに問い掛けるのだ。
一太郎は顔を上げて、目の前に居る仁吉を見つめた。

(仁吉は、また怒るだろうね)

上目遣いで兄やを見やってから、一太郎はゆっくりと腰を上げた。
これを見た仁吉と佐助が、今の今まで外出をしていたのだから、疲れないようそのまま座っていて下さいと直ぐ様言ったのだが、これを一太郎は聞かなかった。

(拙(まず)いんだよね……兄や達じゃあ、きっと拙い)

「若だんな?」

そうと決まったら、行動しかない。

「御免! 後で話すから!」

「若だんな!?」

一言そう言い捨てると、店の暖簾をくぐり抜け、一太郎は通りへ飛び出した。
飛び出したのだが、その瞬間に若だんなは勢いよく何かに衝突してしまった。

「うわっ」

「痛っ!」

頭をまともに打ったのか、すぐに若だんながその場に倒れこむ。
倒れこむ、とは大袈裟で、実際は頭を押さえてしゃがみ込んだだけなのだが、当然これを見て手代達が黙っているはずもなかった。

「若だんなっ! お怪我は? お怪我はありませんか」

すぐに仁吉が駆け寄って若だんなを抱き起こした。
佐助と松之助らも横にやってきて、心配げに若だんなを覗き込む。

「……大丈夫だよ。仁吉、それより――」

震える指で若だんなが指差したその先。
店に入ろうとしていたのか、暖簾の下で尻餅をついている者がいた。

「私はいいから、そちらの……」

仁吉に抱かれたままの若だんながそう言い指したので、松之助がすぐに客に近寄った。

「あの、お客様。どこぞに怪我などは……」

つとめて丁寧に言い寄った松之助だったが、客を起こそうと差し出した手を、ぱしんとはねのけられてしまったではないか。

「なんやのんっ、遅なるよって言うから様子見にきてやったのに。折角の振り袖が台無しやないの!」

若だんな宛ての文句が気に入らないのか、これを聞いた仁吉の顔が険しくなる。
客らしき人物は若だんなに文句を言い散らしながら、起き上がり、砂を払った。見事な黒の振り袖を着ていて、年は若だんなの同年程に見える女子であった。

「兄や達に運悪く見つかってしまったんだよ。悪かったね、ごめんよ」

申し訳ないと、若だんなが情けなく笑って謝る。どういうわけなのか、若だんなはこの女子を知っているらしい。
だが佐助と仁吉はこの女子に覚えがなかった。
また自分らの知らぬ所で若だんなが何かにかかわったのではないかと、佐助も仁吉もその心中で疑り深く女子を見やった。

「まぁええわ。それより若だんな。旦那はんにうちのこと、ちゃぁんと話してもらえたんやろね?」

さして身分が高いようにも見えないこの女子、一体何者なのだろうか。

(若だんなに対して、失礼がすぎるのではないか)

しかし、仁吉の剣幕をよそに、若だんなの方はこの女子に笑って返事を返してみせる。

「それがねぇ、ちょいとまだ……ひゃっ」

そう言いさして一太郎、女子のような悲鳴をあげてしまった。
何に堪り兼ねたのか、突然仁吉が両手で自分を抱き上げたせいであった。

「何するんだい、仁吉!」

上目遣いで睨んでくる若だんなを無視して立ち上がると、仁吉はそのまま女子を見据えてこう言い放った。

「上方の方とお見受けしますが……あいにく若だんなは気分が優れぬ様子ですので、失礼させていただきます」

本当にそのまま離れに連れられたので困ると、若だんなは仁吉の胸元を揺さ振って止めた。

「もう大丈夫さね。仁吉、私を下ろしておくれ」

「外出のことは、離れでゆっくり聞かせてもらいますからね」

仁吉は聞き耳持たずで、一刻も早くこの場から若だんなを連れて行きたいらしい。
だがこれが面白くないと、仁吉の背後から呼び止めの声が上がった。

「なんやのん、その態度。女子相手にあんまりやね」

聞いた仁吉が、若だんなを抱き上げたまま振り返った。
唇を片側だけ歪ませて、これでもかというくらい、皮肉たっぷりの微笑を浮かべる。

「女子、ですって? よく言いますねぇ」

「何て……」

「仁吉?」

仁吉の不可解な言葉に、若だんなが首を傾げる。女子の方は訝(いぶか)しげに仁吉を見やると、その顔に似合わない低い声を洩らした。

「若だんな。何方さんやの? この風流士な兄さんは」

風流士(みやびお)と呼ばれて、またまた仁吉の顔が険しくなる。
どうにかその腕から下ろしてもらった若だんなは、二人の間に割って入るように両手を広げた。

「この手代のことかい? 私の兄やでね。名は……」

そこまで口に出して、ちょいと息を呑む。何故なら隣に立っている兄やがその目で“いらぬ事は喋らないで下さい”と訴えてきているからだ。
だが次の瞬間に、若だんなの言葉を続ける者がいた。

「その者は仁吉というんですよ」

「おっかさん!」

一太郎と仁吉、その周りに居る佐助や松之助達もいっせいに振り返る。
見れば長崎屋藤兵衛が妻・若だんなの母であるおたえの姿がそこにあった。

「一太郎の声がしたと思って来たのだけれど……番頭さん、何の騒ぎです?」

離れに誰もいないのを変に思ったらしく、おたえは店を覗きに来たのだという。

(おっかさんが来てしまったよ。……これは、もしかすると、兄や達より拙いかもしれないね)

だがここまで騒ぎを大きくしてしまったからには、一太郎、腹を決めるしかない。何の騒ぎだと聞かれて返答に困る番頭を助けるように、若だんなは皆に、この女子とは先程外出した際に会ったのだと説明した。

「それで、どうして長崎屋まで連れて来られたんです?」

「それは……ちょっとね。仁吉、怒ってるのかい?」

説明を聞いても聞かなくても、仁吉の機嫌はなかなか直らないようだ。久々に兄やの剣幕に触れてびくついてる若だんなを見た佐助が、すかさず笑いながら若だんなに話しかける。

「若だんな。仁吉の奴は、怒ってるんじゃありません。気に入らないんです」

「佐助、それはどういうことかな」

佐助の発言がいまいち理解できず若だんなは首を傾げている。
そんな様子を見ていたおたえは、いきなりぽんっと手を打った。

「とりあえず、上がってもらいよ一太郎。仁吉も佐助も、そんな顔をしちゃあいけないよ」

これを聞いた兄や達の顔が厳しいものに変わるのも構わずに、おたえは坦々と言い切った。こういうところが、おたえらしいのかもしれないが。
とにかく、どうせ夜までには藤兵衛も戻るし、それまでは無理に若だんなが喋ることもないだろうだとおたえは考えたのだった。この意見に不服があるかと問われれば、返答する必要は、全くと言っていいほどなかった。

「店先(ここ)は駄目だから、離れにお連れなさい」

そこでしばらく落ち着いて話したらいいと、若だんなにというより、手代達に話しかけるようにおたえが言った。

(どうしたんだろう。今日のおっかさんは、まるで普通の人だ)

妖の子も舐めたもんじゃないと、若だんなは改めて母親のすごさを垣間見たような気がした。

「それともなんなら、おっかさんが、話を聞こうかねぇ」

それは遠慮してほしいとおたえに断ってから、若だんな達は離れへと消えた。

(一体あの女子は、なんなのだろう?)

松之助やこの場に居合わせた番頭の胸に残るものもまだあったが、この騒ぎの間に他の客が来なかったことがこれ幸いと、再び仕事へと戻ったのだった。


※風流士…ここでは男女の情愛に通じたプレイボーイのこと 
(「みやびお」と読む)
 


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