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をとこ冥利 2


     2


夜も明けた此方、江戸は日本橋。通町にある長崎屋の店先に、通りから暖簾をくぐって姿を見せた人物がいた。その人物を見てこの店の奉公人である松之助は首を傾げた。

「あれ、若だんな。どうして通りから店の中へ?」

「に、兄さん……」

松之助は何故一太郎が通りに出ていたのか、若だんなは何故兄に見つかってしまったのかと、双方共に、変な顔をしてお互いをまじまじと見やる。今日も一日離れで寝ているはずなのでは? と問う松之助に、通りから暖簾をくぐって店に戻った若だんなは、ぎくりと瞬間顔を強張らせた。
現状ではこの二人、奉公人と長崎屋の若だんなという間柄であるが、腹違いの兄・松之助と若だんなはたいそう仲が良い。それ故にか、兄や達とはまた別に、松之助は一太郎のことに関しては人より勘が働くらしいのだ。
今も松之助は若だんなの顔をちらりと伺っては、一人納得して頷きながら、その口を開いた。

「勝手に外出を? 兄やさん達が黙ってはいませんよ」

若だんなに微笑みかけながら、僅かに厳しく松之助が言い聞かせる。
このように自分に甘すぎないところが松之助の良い所だと思いつつも、若だんなは情けなさそうに眉を下げながら、店先から帳場へと歩み寄り、そこへ腰を下ろした。
幸い若だんなの調子は大丈夫に見え、帳場に居合わせた番頭も若だんなの外出を兄や達には黙ったままでいてくれるらしい。有り難いことこの上なかった。

「兄さん、兄や達には内緒にしていておくれな。ね? 頼むから」

たった一人の弟に、両手を合わせて頼み込まれたのでは、さすがに兄は弱くなる。
だが松之助、ここで簡単に引き下がるようなことはしなかった。

「私が進言なぞしなくとも、今に兄やさん達が店先に飛んでくると思いますが」

「兄さん! 嫌なことを言わないでおくれよ!」

店先に飛んでくる手代達の幻でも見えたのか、松之助の言葉を聞いた若だんなの顔が瞬間、さっと青くなる。

「それで、一体何方(どちら)へ行ってらしたんですか」

「その……ちょいとそこらへね。それより兄さん、おとっつぁんは何処かな」

「旦那様は今、品川宿にいらっしゃいますよ。なんでも常磐丸のことで、水主(かこ)達と話があるとか……」

「……そう。おとっつぁんは、今、長崎屋に居ないんだね」

兄の返答を聞いて、若だんなは困った困ったと、ひとり唸っている。
その様子を横目で松之助は些か訝しげに見た。

(旦那様に何か大事な用事でもあるのだろうか。いや、それよりも、若だんなの様子がどことなくおかしいような……)

寸の間考えてみて、弟に声をかける。

「若だんな」

(果たしてこれは、兄の勘というものなんだろうか)

外出の間に何かあったのかと、松之助が問おうとした、その時だった。
帳場に座る番頭の横へ、大柄な手代が一人音もなく立っているではないか。

「佐助さん……」

いつからそこに居たのかと、松之助と番頭は目を丸くしている。無言の佐助は二人に構わず、一太郎に音もなく歩み寄る。

「さ、佐助! どうしたのさ。顔が……恐いよ」

若だんなは顔を引きずって逃げ腰体勢をとろうとする。
しかしすかさず佐助がそれを阻止するかのように、ずいと若だんなに詰め寄った。

「調子はいいようですね、若だんな。ですがあれほど注意したのに、離れから逃げ出すとはどういうことなんです!」

「逃げ出すだなんて、大袈裟だね佐助。ちょいとばかし、私は黙って外出をしただけじゃないか」

恐い顔の兄やを誤魔化すよう、若だんなはにっこり笑ってみせるのだが、佐助の機嫌は直らないらしい。助け船をと、佐助の隣に立つ松之助を見るのだが「松之助さんに助けてもらおうとしても駄目ですよ」と佐助に阻まれてしまうのだった。

「あたしと仁吉がいない間に逃げ出すなんて……若だんな、また知らぬ所で倒れたりしたらどうするんですか! せめて一言、あたしらに行き先を言ってから外出なさって下さらないと、まるで生きた心地がしませんや」

もう一人の兄や・仁吉もそうであるが、長崎屋の手代であり、若だんなの兄やでもある佐助は、一太郎のことにのみ度を極め尽くした心配性である。それ故に生きた心地がしない、などと口走るのだ。

(そりゃあ、佐助の言い分もわかるけどね)

百歩譲って、若だんなのことに関しては大の心配性である兄や達に黙って外出した一太郎が悪いとしよう。
だがその現実は、
(行き先を行ったところで、すぐに夜着の下に放り込まれることが、もう、わかりきってるじゃぁないか)
こうなる結末なのである。

「おや? 何か不服そうですね、若だんな。 あるならばどうぞ、お吐きになって下さいな」

「あのねぇ佐助、私は別に……」

「不服がないんですか? それならばよし。では早速、外出の言訳(わけ)とやらを聞かせてもらいましょう」

「いや、だからね、佐助。私は本当にそこらを回っただけで……」

「そこらを歩くだけならば、あたしらに一言言って下さるのが常なんじゃないんですかね、若だんな」

何やらいつもは見逃しの甘い佐助が、今日に限ってなかなか許してくれそうにない。

(こんな小言ばっかり……。まるで、仁吉みたいだよ)

一緒に居すぎて佐助が仁吉に似てきたのではないだろうか。そうなのであれば、尚怖い。

(こうなったら)

若だんなは首と雑念をふるふると横に振ると、視線をちらりと通りの方に移しながら、しどろもどろ口を動かした。

「そ、そういえば……私、仁吉にはちゃんと、断ってから出てきた……んじゃなかったかな?」

思い出したら確かそうだったよと、一太郎、その笑みで必死に誤魔化す。

「おや、それはおかしいですね。初耳です」

(げぇっ……)

若だんな苦肉の策が、一瞬にして消え去った。



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