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すずろなる、ひとへ心 1


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正月もとうに過ぎ、寒さばかりがまだ残る睦月の暮れの薬種問屋長崎屋の店先で、身内の者は聞き慣れている言い争いが、今日ものんびり続いていた。

「若だんな。火鉢の前から離れないで下さいと、何度言えばわかるんですか」

そう言って若だんなに説教しているのは、この店の手代、一太郎の兄やである仁吉だ。
男前な仁吉はこの薬種問屋で働いている有能な手代である。だが、たいそうもてるのにも関わらず、この手代は女子に興味がとんと無いのか、当人は毎日若だんなの昼の給仕をしきり、過保護なまでに若だんなを甘やかすこと並々ならない。

「ちゃんとこうして、言われた通りに座っているじゃないか」

そうふくれっ面をさせながら手代を睨み付けているのは、この店の一粒種、病弱なことにおいては誰にも負けない若だんなだ。仁吉の小言に負けることなく、掻い巻きを二枚も巻き付けられた情けない格好で、しっかり丸くなって火鉢に張り付いている。

「誰が、いつ、帳場に出ていいと言ったんです? 若だんなはこちらです」

仁吉はそう言って、薬種問屋の帳場奥にある六畳間の一室を指差した。
一週間程前に床上げをした若だんなは、どうしてもと父の藤兵衛に懇願して店先に出る許しをもらった。だがこれにただ黙っている兄やではない。藤兵衛の許しが出たのであれば仕方ないが、なんといっても若だんなの昼の給仕は仁吉が仕切っているのだ。久しぶりに仕事ができると意気揚々としていた若だんなだったが、薬種問屋に顔を出すなり、仁吉が帳場奥の六畳間に閉じ込めたきり。火鉢の側から離れるのを、手代はよしとしなかった。
しかし若だんなとて、兄やの言い付けに全て頷くはずもなく、仁吉の目が少しでも離れる度に、こうして帳場にこっそり居座り続けているのだった。

「若だんな、戻って下さい」

仁吉がその秀麗な顔を若だんなに近づけて、優しく言い聞かせるのだが、どうにも今日の若だんなは断固として首を縦に振ってはくれない。
些か困って番頭の忠七に、「番頭さんからも、何か言って下さいよ」と視線を送るが、言い争いと呼ぶにはあまりにも日常茶飯事な光景に、番頭は軽く苦笑いをして肩をすくませるだけだった。

(さて、どうしたら若だんなは、あたしの言うことを聞いて下さるのかね)

上目遣いで睨み付けてくる主を前に、仁吉がいつものように若だんなを抱え上げてしまおうかどうしようかと決めかねているところに、ふと、店先でちりんと小さく鈴の音が跳ねた。

「おや、お客さんだよ」

鈴の音を聞き取ったのか、客が来たことに気づいた若だんなが仁吉から視線を外す。
だらしがないからと、掻い巻きを脱いで接客に当たろうとする若だんなよりも素早く、仁吉が動いて接客に当たる。
文句が後ろから聞こえないところをみると、どうやら仁吉がきつくきつく結んだ掻い巻きの紐解きに手間取っているのだろう。好都合だった。

「何をお探しでしょう」

帳場から下りて土間に立つと、客は子供連れで三十路過ぎくらいの婦人であった。
子供は母親の足元にしがみ付いていて、手代をこっそりと伺うように、小さな顔が見え隠れしている。

「あ、あの……」

何故かとても言いにくそうに客が口を開く。どうなさったんですかと口には出さずに眉をひそめると、客と目が合った。
仁吉としては、若だんなが掻い巻きの紐解きに苦戦している間に接客し終えたいのだが、手代を見たせいか、客の頬がほんのり赤くなる。

(子供連れだってのに、亭主以外の男に顔を赤らめるとは……やれ、飽きれることだね)

自分に原因があると少しは理解しつつも、仁吉はなかなか用件を話そうとしない客を、あからさまによくない目つきで見据えた。すぐに客がこれに慌てて口を開こうとすると、母親の足元にしがみ付いていた子供が先に言葉を発した。

「凧」

「凧?」

いきなり虚を突くように発せられたその言葉を、思わずそのまま聞き返す。
子供は見たところ五歳児くらいだろうか。人見知りの激しい男児なのか、それだけ言うとまた母親の影に隠れてしまった。
わけもわからず母親を見ると、息子が粗相をしたと思ったのか、今度は顔を青くさせている。

「すいません。実は、この子の凧が風に流されてしまって」

客はおずおずと、手代の顔を伺うように話を繋げる。

「すぐそこでの話なのですが、この子が雪の溝に足を取られとしまいまして」

正月も過ぎたというのに、どうやら今年は通りに降り積もった雪がまだ溶けていないらしい。もちろん人も多いから、凧は子供が抱えていたらしいのだが、雪に填まった時に運悪く凧が手から零れ、風に飛ばされてしまったのだという。

「凧の後を追いましたところ、こちらの長崎屋さんの屋根を越えていったようなんです」

慌てて通用口の方から周囲を探したが見当たらない。ならばこの大店の庭の何処かに引っ掛かっているのではと思い、迷惑招致で店先に顔を出したのだった。
正月もとうに過ぎたというのに、凧を持たせていた母親の自分が悪いと客は自責している様子だが、事情がわかれば話は早い。仁吉は店先にいた小僧を一人つかまえると、手早く庭を見てくるように告げた。

「どうしたんだい、仁吉?」

掻い巻きの紐解きとの闘いになんとか勝利したらしい若だんなが、ようやく店先にきて客に会釈をする。この親子が薬を買いに来たのではないと感じとった様子だったので、仁吉が簡単に話を説明すると、若だんなは一つ頷いて納得した。

「おや、ありましたね」

仁吉のその声に皆で顔を上げると、小僧が手に凧を持って走ってくる。やはり、庭の隅に落ちていたらしかった。

「凧かぁ。懐かしいね。私も随分、遊んでいないよ」

仁吉が小僧から受け取った凧を見て、若だんなが懐かしそうに嬉しげな笑みを浮かべた。
隣で嬉しげに笑うだんなを見る手代の顔は優しいものだったが、若だんなは今掻い巻きを着ていないので、身体が冷えないかと、若だんなを見やる仁吉の視線だけは、心配げな兄やのものになる。

「掻い巻きも着ずに、火鉢の側にもいないなんて。きっとまた、新しい風邪をひいて寝込んでしまいますよ、若だんな」

心配げな兄やに対して、お客さんの前じゃないかと、若だんなは些かご立腹だ。

「大丈夫だってば。……それより仁吉、ほら、思い出さないかい? 凧と言ったら」

凧に嬉しい思い出でもあるのか、そう話す若だんなの顔には活気が溢れている。具合は幾分良さそうだと、若だんなの顔色を再度確認してから、手代は手元の凧に視線を落とした。

(凧と言ったら、か。……懐かしいねぇ)

ふと脳裏に蘇る。
あれも確か、寒さの残る日のことだった。



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