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昔語(むかしがたり)  6


     6


翌朝、兄や達と一緒に居られると昨晩安心して床についた一太郎の調子は、珍しくも良かった。そんな一太郎を見れば小僧である兄や達もたいへん機嫌が良い。今朝は朝から二人とも、仕事に精を出していた。
ところがその日の正午頃になって、あまりにも突然な別れが長崎屋に訪れた。
他でもない、小僧の七松だった。

「旦那様、何故なんです? 働き者の七松さんに暇を出されるんですか」

仁吉や佐助だけではない。長崎屋で働く小僧や手代、番頭を初めとする全ての者が驚いている。

「旦那様が決めたことじゃぁありません。私の事情でして」

今朝方長崎屋に、七松の実家から文が届いたのだという。個人的な事情なので、主人である藤兵衛とおかみであるおたえ、古株の番頭らにしか七松はその理由を明かさなかった。

「いつ出ていかれるんです?」

佐助のこの問いには、言いにくそうに藤兵衛が答えた。

「それがね、些か大事なことで……もう、発つというんだよ」

「今からですか!」

「そんな……七松さん」

そういえば今朝は七松の顔が店先にいなかったのを、小僧達は思い出した。聞けば文を読んでからすぐに旅支度をしていたのだという。

「長崎屋さんには四年もお世話になったのに、急な事情で申し訳ありません」

七松は照れ臭そうに、主人とおかみに頭を下げた。あまりにも急すぎる別れに、皆誰一人として立ちつくしている。やがて小僧達の内の一人が、いつ発つのかと静かに聞いた。

「半時も経たない内に。旦那様、その前にぼっちゃまに挨拶を……」

七松はとりあえず皆を落ち着かせようとして、一太郎への挨拶を藤兵衛に願い出た。藤兵衛は七松の言葉に頷いて、佐助と仁吉と一緒に離れに行くよう、静かに七松に勧めたのだった。



「一太郎ぼっちゃま、七松でございます」

兄や達と一緒に現れた七松を見て、一太郎はきょとんと首を傾げた。何故ならば七松が、たいへん改まって一太郎に、深く礼をして居間に入ったからであった。

「七松さんは、ぼっちゃんにお別れをしにきたのですよ」

佐助が一太郎を七松の前まで連れてきて、わかりますか?と訊いている。

「長崎屋から、出ていっちゃうの?」

一太郎がそれは悲しそうに尋ねたものだから、七松は笑った顔を一太郎に向けてつつ、申し訳ないと一言だけ呟いた。

「実は兄が、倒れてしまったそうなんです」

文によればその原因が病なのか放蕩が故になのかはわからないが、店の窮地には違いなかった。

「ぼっちゃまとも長崎屋とも離れるのは寂しいです。ですが、私は行かなければ」

己が行かなければ、店は潰れてしまうと低く言う。決心はもう付いていた。
七松は佐助と仁吉にも言い聞かせるように、強く、最後にこう告げた。

「この長崎屋で育った七松は、お故郷(くに)に帰り、旅籠屋の若だんなになります」

そしてもう一度一礼を済ませると、七松は離れを去って行った。
佐助と仁吉が慌てて一太郎を連れて店先へと駆けていくと、藤兵衛からささやかな金子を受け取った七松は、もう本当に長崎屋から発ってしまうのだった。

「お気を付けて」

「道中、息災に」

佐助と仁吉も短くそう告げて、小田原まで七松を見送る番頭と共に去って行く七松の後ろ姿を、一太郎と一緒に見送った。

「もう……帰ってこないんだね」

七松が去った後で、一太郎がぽつりと呟く。

「七松さんは若だんなになるんです」

一太郎を抱いた佐助が優しくそう言った。

「ぼっちゃんがいずれ長崎屋の若だんなになるように、七松さんは若だんなになるために帰ったのですよ」

隣で仁吉も、一太郎の頭を撫でながらそう呟いた。

「……兄や」

一太郎が二人を呼ぶ。

「われが“わかだんな”になっても、兄や達はわれの傍に居てくれる?」

この問いに兄や達は、すぐ様笑って優しく言った。

「えぇ、居ますとも」

「あたし達は若だんなの傍を離れません」

兄や達の返事を聞いた一太郎が、嬉しそうに笑う。

「われも変わらない…だから、兄や達も変わらないでおくれ」

それは長崎屋を去っても、七松が七松であるのと同じように、一太郎が若だんなになっても変わらぬ、ただひとつの小さな願いだった。
七松の後ろ姿は人混みに紛れて、もう長崎屋から見えなかった。



「若だんなが変わらないからこそ、あたし達はこうして傍に居れるんだね」

佐助は昔のことを懐かしそうに思い出して、嬉しそうにそう呟いた。

「若だんなは、若だんなだからねえ」

仁吉もそれはそれは顔を綻(ほころ)ばせて、若だんなの寝顔を眺めた。
一太郎に仕えると決めたその日から、もう十年以上が経っていた。妖である佐助と仁吉にとって、それは極々短い年月でしかない。けれども一太郎と過ごす年月は、その一瞬一瞬が、二人にとって大切な時となる。

「永いね……変わらずに居られるのも」

変わらずに居ることは、永く、永い年月なのだ。たとえそれが、妖の一生での一部でしかなくても。

「これからもずっと、あたし達は若だんなの傍から離れません」

離れずに若だんなと一緒に居て、いつか今日のことも昔懐かしんで話せればいい。別れが訪れるのは、まだきっと、永い先のことだから。
だから、変わらないのだ。
佐助も仁吉も若だんなも。ずっと、ずっと。



2008.0212


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