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昔語(むかしがたり)  5


     5


「私の故郷(くに)は駿河なんだ」

今の季節には心地好い夜風が吹く中、ぽつりぽつりと七松が自分のことを語って聞かせた。
七松の家は駿河の東海道沿いに並ぶ、地元では名の知れた旅籠なのだそうだ。七松はその家の次男坊で、ちょうど今の佐助と仁吉の年の頃まで、実家の旅籠屋を下働きながらに助けていた。

「だがある日、突然父が病で倒れてしまってね」

まだ父は若かったし、しばらく療養すれば良しとして、父は旅籠を長男の若だんな・七松の兄に自分の代わりをさせてしばらく表に立てることになった。

「私は兄を慕っていたから、父の代役として張り切る若だんなを支えることが、幼いながらに嬉しかった」

この時七松は十過ぎばかり、兄の若だんなもまだ十六歳であった。だが女将である母や奉公人らとも助け合って、父が倒れてから二月ほどは以前と変わることなく、旅籠はやっていけた。大変ではあったけれども、幼いながらに自分も家のために役立てられるのが、七松は嬉しかった。さらに若だんなとして兄が頑張ろうとする姿を見て、七松はおおいに若だんなに尽くした。父がいない今、旅籠屋の中心核の若だんなにはなるべく休んでいてもらわなければと、幼いながらにその身を削って、七松は若だんなの雑用を端から端までやるようになったのだ。
ここで七松は一度口を閉ざし、小僧達と泣き止んだ一太郎をちらりと見てから、その言葉を続けた。

「それが……私が若だんなを甘やかしたのが、いけなかったんだ」

七松の父の病が思うように回復しなかったのだ。それに託(かこつ)けて、七松の兄である若だんなは、この兄思いの七松に甘えまくった。雑用という雑用は五つも年下の七松に押しつけて、己は若だんなとして旅籠に居るだけ。若だんなとしての仕事を覚えることをすすんでしなくなったのだった。
案の定、それから一気に店は苦しくなった。旅籠の中心核がいない、深刻な人手不足だった。

「兄の若だんなを甘やかしていたのは私だけではなかった。だから尚更、皆罪悪感に苛まれたんだ」

店の危機を病の床から悟った父は、旅籠屋の若だんなを兄から働き者である七松に代替わりさせようとした。だがそれにはまだ少しばかり七松は幼い。おまけに、このまま七松が若だんなに代替わりしたとしても、また再び兄を甘やかして己ばかり損をするのではと父は考えた。

「そこで私は商人として一から学ぶべく、父の知り合いから紹介してもらった長崎屋さんに来たんです」

廻船問屋と旅籠屋では些か異なるが、まずは商いをする上での“いろは”を学べと、この江戸に来たのだった。

「誰かを慕うのは悪くない。でも、その人を甘やかしすぎてはいけない」

七松は顔を上げて、仁吉と佐助を交互に見つめた。

「甘やかした自分にも、甘やかされた当人にも、その店にとってもよくないことなんだ」

七松の言いたかったことはこれだったのだ。小僧達である二人が仕事そっちのけで若だんなについているのが、いつの間にか己の内で、自分の家とその兄と、昔の自分の姿と重なってしまっていた。それに気づいた自分が昔の自分を思い出して腹立たしく、二人に冷たく当たってしまったのだ。

「ましてやそれが、将来大店の若だんなになるぼっちゃんなら尚更……というわけですか」

七松の言い分はわかったものの、二人の小僧はまだ少し不機嫌だ。昔語りの先に、自分達ではなく一太郎に謝罪しなかったのが勘に障っていたらしい。

「ぼっちゃまにも、本当に申し訳ないことをしました……すみません」

深く深く七松がそう頭を下げたので、小僧達の顔には笑顔が戻り、佐助が近寄って七松の肩を軽く叩いた。

「七松さんの事情を知らなかった我々も申し訳なかった。ですが、ひとつ覚えておいてもらわねば」

佐助の言葉を繋げるように、仁吉がその口を開いた。

「あたし達はぼっちゃんが何より第一です。長崎屋の若だんなを大切にせずに、店の繁栄も何もありえません」

はっきりそう言った後で、小さく「もちろん、七松さんの忠告は肝に銘じます」とつけたす。これを聞いた七松の口から、思わず笑いが漏れた。

「本当かね仁吉? ……うん、でも」

大事な話をしたというのに、小僧達は普段と変わらずに一太郎が第一だ。それがなんだか可笑しくて、三人を見ながら七松が笑う。だが寸の間経ってから、三人に向かってこう告げた。

「仁吉と佐助が付いてれば、ぼっちゃまは大丈夫そうだ」

七松がそう言った後に小僧達がすかさず「もちろんです」「当たり前です」と言ったものだから、七松はもう一度三人を見て笑った。

「われの傍に、兄や達は居てくれるんだ……」

七松の話が半分くらいしかわからなかった一太郎も、大事な兄や達がもう叱られないと感じ取ったらしかった。
先日一太郎の心に強く根付いた決意とは、何がなんでも兄や達を失いたくないという思いだった。兄や達が傷ついているのなら自分が止めたいと思い、今もこうして離れから出てきたのだが、もうその心配もないらしい。
そう思ったら気が抜けて、一太郎も七松の笑みにつられるよう、仁吉の腕の中で小さく笑った。
それまでの小僧達の蟠(わだかま)りもすっかりとけたようで、その晩はそれきり。七松は母屋の小僧部屋へ、一太郎を連れて仁吉と佐助も離れへと帰っていったのだった。



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