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千年の雨


ひとつ零れ落ちるものがあったので、何ともなく空を仰いだ。

(どうりで先程から日が陰っているわけだ)

人間のそれよりは幾分優れている鼻をよく使えば初めからわかりそうなもの。
だが濡れようとて、妖である己にはさしたる問題もない。天候を気にするなど、甚だ煩わしかった。
だが、と横目で道行く人々を見やれば、軒下もまばらな通り故、雨宿りもできぬと皆早足で家路を急ぐ。初秋の雨はさして体を冷やすものでもないが、残暑が終わり穏やかな陽気に恵まれていた中では少々こたえるに違いない。
そんな面白くもない事を考えながら、家路を急ぐわけでもなく足を進める。
どの程度のものになろうと関係ない。店はもうすぐであった。
だから、ふいに人肌には強いと思われる風に乗せて聞こえてきた子鬼の言葉も、どの程度のものでもなかった。

「お嬢さんはまたあの御人のところで」

既に閑散としつつある人の姿だが、往来故、返事はせずに子鬼を下がらせる。
近頃はちゃんと忠告を飲んでこのように伝言を残してゆく主人に、安心とも諦めともとれぬ溜め息が我しらず零れる。主人が己のいぬ間にいなくなることは珍しいことではないし、どうせ雨が止まぬ限り店に客など来ない。暇を持て余すのは性分ではないので帳簿の見直しでもやっておくことにする。主人は己よりも長く生きる妖であるから、年頃の女子の人型を装(と)っていても、雨風ごときでどうということはない。心配の気などいらないだろう。
しいて云うならば、主人と共にいる人間の為にまたいらぬ世話を焼き、気苦労を起こさないかの一点が気にかかる。この点においては前科数知れず、忠告など無意味に等しい。
ともかくも、この雨が止むまでは主人は帰ってこない。
行き先もわかっているのだから、主人の身を気にかける必要など、どこにもない。

(雨が止む理由など、どこにあるのだ)

胸中に浮かんだ思いは、誰かの想いに思えてならない。
濡れて色が濃くなった店の見慣れた暖簾をくぐる。
そこから落ちた雫が妙に、冷たかった。



何百年、何千年を生きる己達妖にとっては時代の移り変わりなど目の端をよぎる景色のひとつでしかない。
だが人間達は時が過ぎるごとに変わる。町並みや市井の暮らしも変わった。不変的に見える浮世でも、己だけが届かぬ想いに捕らわれていた間に随分と変わってしまった。
その想いも今となっては昔の話で、変わらないものなど所詮、この雨くらいのものだ。



「折角の芝居見物が台無しです」

どうにもならないと知ってはいながら、仁吉は忌々しげに空を睨んだ。
今日は朝から気持ちの良い秋晴れで、このところ体調の良い若だんなの共になって市村座の新作を見に出かけたのだった。
ところが、芝居の余韻に浸りながら両国くんだりまで足を伸ばした辺りで、急に雲行きが怪しくなった。駕籠を拾うかどうするかと、そうこうしている間に降り出してきた雨はもう四半時程止んでいない。
幸い、すぐに目の前の茶店に飛び込んだ為若だんなは濡れずに済んだが、茶店はそのような客でいっぱいで、軒下脇の店表に座らざるを得なくなった。雨は表の土を跳ね返すような強さではないものの、仁吉にとってこの世の何よりも大事な若だんなの雨宿りの席が、今にも濡れてしまいそうな軒下脇というのは不本意すぎてならない。

「若だんな、寒くはありませんか?」

心配げに若だんなを気遣った後で、雨が売れ口と忙しなく働いている茶屋の亭主に、仁吉は冷ややかな視線を送る。

「私は大丈夫だよ。仁吉、ご亭主を睨むのはおやめ」

やんわりと手代を窘(たしな)めてから、若だんなは何かを探すように袂へと手を伸ばしかけ、すぐにはっとする。

「鳴家は留守番してるんだった」

そう呟いた主人を見て、芝居見物の邪魔になるからと子鬼を置いてきたのが少々悔やまれた。袂に幾人(いくたり)か忍ばせていれば暖をとるのによかったかもしれない。
意図せずにそんなことを考えている仁吉に気づいた若だんなは、声には出さずに小さく笑う。
兄やは気づいていないのだ。
その優しさが、どれだけ温かいのかを。

(私が濡れたら、兄やは怒るかしら)

そんなことを思いながらも、若だんなはふいに軒下から手を伸ばし、その細雨にも似た白い指を雨で濡らした。

「雨…冷たくない」

仁吉にだけ聞こえるように一言ぽつりと囁いた。
仁吉は一瞬呆気にとられていたが、すぐに疑い深く若だんなの顔を覗き込んできた。
人の身にこの時期が雨が冷たくないなどというのは信じがたく、若だんながまた熱でも出したのかという心配顔だ。慌ててそれを否定するべく己は正気だと弁明する。

「あのね、本当だよ仁吉。冷たくないもの」

天から墜ちる雨は地に染みるのに、若だんなの言葉は仁吉の耳には入らないらしい。

「やはりこんな茶店に長居は無用です」

そう冷たく言い放ち、立ち上がろうとした手代の袖を雨に差し出した手でぎゅっと掴む。
上目遣いで大丈夫だとしつこく釘を刺すこと暫し……。結局、折れた形となった仁吉が肩の力を抜いた。

「……若だんなが雨がお好きだったとは初耳ですよ」

些か呆れた風に問いかける手代に対し、好きというか嬉しいのだと若だんなは答えた。

「私は寝付いてばかりだから、雨の日に出掛けることなんてないし。雨に触れる機会なんてめったにないもの」

調子の良い時だとて、兄や達は若だんなの身一つが一番大事であるからと雨というものに進んで触らせてはくれない。
殊に秋雨などは秋入梅とも呼ばれ鑑賞の一にもなりそうなものであるのに、いつものように離れに籠もりきりでは勿体無いと思う。

「今日は良い日だよ。仁吉と出掛けて芝居が見れて、雨にも遭えた」

だからこの音も、匂いも、全部が嬉しいのだと若だんなは語った。
そんな様子をじっと見ていた仁吉だったが、やがて雨しか映らぬ通りへと静かに視線を移す。
その端整な横顔が何故か悲しげに見えたので、若だんなは再び上目遣いで伺いながら、手代の袖を軽く引っ張る。

「仁吉は雨が嫌いなの?」

そっと尋ねてみると、これはいつもの優しい笑顔ですぐさま返事を寄越した。

「好きではないですね。天の気には流石に抗えませんので、万一、若だんなの体を冷やすようなことがあるかと思うと……」

そのように淡々と述べる理由が己の為であることに若だんなは苦笑いする。
けれど、この優しさには何度でも触れていたいとも思う。
雨の如く胸に染み渡る想いを隠すように、仁吉の袖からゆっくりと手を離した若だんなは、先程と同じように空へと手を伸ばす。

「早く雨、止むといいね」

そう言いながら、「鳴家達が風邪を引いたら大変だし」などと呟く若だんなは雨と久しぶりの外出を楽しんでいるように見える。軒下から落ちる雫で指先が濡れるのも構わず、はしゃぐ様は幼い頃と全く変わらない。
止めばいいというのも単なる言葉にすぎず、真意がこもったものではないのだろうと仁吉は思った。

「そうですね」

我しらずの微笑を零し、同意を示す返事をする。
しかし、あまり指先を冷やしすぎてまた熱を出されては大事(おおごと)だ。己の主人は他人より病弱な人の何倍も病弱なのだから。
その指先を濡らすものが何であれ、ぬくもりを損なうことは許されない。
そうして雫から遠ざける為に伸ばした手で、若だんなの額に落ちたひとつを拭う。
瞬間的に触れた雫は思いの外、暖かかった。

「仁吉?」

次いで触れた指先の冷たさは、名を呼ぶ声に混じり雨の中に消えていった。
遠い昔の雫の冷たさは、この手のぬくもりの前では意味を成さない。
永き時が過ぎ、今この胸中に浮かぶ想いは違っていても、確かに変わらぬものがある。
雨が止む理由など、どこにもなかった。



2010.1101



あきゅろす。
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