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ききれんぼ


昨晩に兄や達が差し出したとてつもない味の薬が効いたのか、昨日まで全く優れなかった長崎屋の若だんなの顔には少しずつ、精気が戻ってきていた。
だがそれでもまだ快調とは程遠く、今日も若だんなには二人の兄やが手代の仕事もそっちのけ、付きっきりで看病していた。

「若だんな、薬湯をお持ちしましたよ」

そう言って笑顔を向けてきたのは仁吉で、その手には黒に程近い緑色の薬湯が、いかにも苦そうな臭いを立てていた。

「……仁吉、それは…」

飲まなければいけないのかと問いかけて、すかさず笑顔の仁吉が「いけません」と返してくる。
若だんなはもう一人の兄やである佐助に支えられながら起き上がると、今にも泣き出しそうな子どものような顔をして、上目遣いで仁吉と佐助の顔を交互に見やった。

「駄目ですよ、若だんな」

「ちゃんと飲んで下さい」

左右両方から交互にそう言われ、若だんなは渋々覚悟を決めると、薬湯を一気に飲み干した。その後には案の定、蛙の断末魔のような声が若だんなの口から零れたが、薬湯は零れてこぬと見て兄や達の顔は緩くなった。

「お利口さんですね」

「よくできました」

兄や達はたいへん機嫌よく、まるで赤子をあやすかのように一太郎を褒める。その様子を褒められている一太郎当人が、呆れ返って床の上から二人を見上げていた。

(確かに…妖の兄や達から見れば、私は赤子も同然なんだろうけど)

しかし二人供、人間に混じっての暮らしはとうに慣れている。なのに、(十七にもなった私にかける言葉がこんな様子でいいものか……)
一太郎の悩みというのはこのことであった。
いくら祖母のおぎんに頼まれたからといって、あんまり甘やかしすぎるのもどうかと、自分のことながらにそう思う。だが、たとえ一太郎がそう兄やに詰め寄ったとしても、その兄や達から返ってくる返事は決まっているに違いない。
一太郎はそこで少し思案してから、違う質問を二人にぶつけてみることにした。

「ひとつ、二人に聞きたいことがあるんだけど」

「なんです?真面目な顔をして……」

急に真面目な表情になった若だんなを、仁吉が心配した面持ちで見つめ返した。

「兄や達は今、誰ぞに恋慕したりしていないのかい?」

昨晩たいへん興味深かった、仁吉の失恋話を聞いたばかりだ。実のところはもうずっと尋ねてみようと考えていた若だんなだが、なかなか尋ねる機会もなく、昨日の今日のことだとして、この際ならば聞けるのではないかと、重かったその口を開いたのだった。
だがこれはいろんな意味で拙い質問であった。
すぐに仁吉が額に手を当てて、熱はないかと確かめにかかる。佐助もその瞳を猫のように細くさせ、心配そうに若だんなの顔を覗き込んできた。
慌てて若だんなが起き上がり、二人の兄やを顔から離した。

「私は正気だよ!ねぇ、質問に答えておくれな」

もう一度、さぁ教えてくれと若だんなが二人を見やる。
いつも兄や達は若だんなに甘い甘いの繰り返しなのだが、そうではなくて二人の兄やに、自分以外にも甘くしている者が一人くらいはいないものかと、恋愛について学べる年頃になってから、常日頃考えていたのだった。
だが兄や達は二人して顔を見合わせると、何が可笑しいのか、けらけらと笑いだした。

「若だんな、そいつは可笑しな質問で」

瞳を元に戻した佐助が笑いながらそう言ったものだから、兄やの目が再び猫のそれのように細くなっている。そのくらい、可笑しいらしかった。

「あたしらは若だんな一筋です。女子なぞ、興味ありませんよ」

こちらは至って真剣に、仁吉がそう返事を寄越した。袂に集まる懸想文がその事実を伝えるように、あれだけの女子達に惚れられているにもかかわらず、手代は当たり前だというようにきっぱりとそう告げた。

「そうなの……?でも、仁吉は恋愛の嬉々を知っているだろう」

だったら祖母が祖父に嫁いでしまったその後で、誰ぞと恋仲になってもおかしくはない話ではないか。
だが依然兄や達は、ありえませんの一点張りだ。

「そいつは兄やさん達の言い分が真っ当だよ、若だんな」

そこでふいに佐助と仁吉の返答に困っている若だんなに声をかけたのは、離れにある屏風の付喪神である屏風のぞきだ。ふらりと己の本体から出てくると、床から上半身だけ起きている若だんなに近寄った。

「二人はずっと若だんなに付きっきりだろう。恋慕なんぞ、している暇はないだろうに」

屏風のぞき本人は至って真面目に答えたのだが、その言葉を聞いた若だんながはたと我に返って、兄や達がいつも自分の看病をしてくれていることに気づき、「そうかぁ」とひどく悪そうに落ち込んだものだから、これを兄や達が見逃すはずはなかった。
すかさず佐助が屏風のぞきの首根っ子を掴んだと思ったら、仁吉が思いきり屏風のぞきを殴ったのだ。

「ひえぇっ」

いつになく鈍い音と屏風のぞきの高い悲鳴が重なった。驚いた若だんながすぐに、兄や達を止めにかかる。

「何をしているんだい!やめないか、佐助っ、仁吉っ」

「こいつがいけないんで。あたしらは恋慕なんぞ、興味ないって言ってるのに」

若だんなの問いに、佐助がやや億劫そうに答えた。その目は屏風のぞきを、射殺さんとばかりに睨みつけている。

「若だんなでなく、女子と居る方がよほど楽しいとでもいうのか!えっ?」

仁吉の怒りは凄まじく、目は妖のそれに、屏風のぞきを殴った拳はまだ殴り足りないと震えている。
だがそれを阻止すべく、若だんなは床から立ち上がって必死に仁吉に縋りついた。

「仁吉、おやめよっ」

昨日まで久しぶりに死にかけていた若だんなが、身を挺して止めようとするので、仁吉はなんとか怒りを抑えて震えていたその拳を下げた。

「まだ起きてはいけませんよ、早く床に戻って下さい」

仁吉は若だんなに優しくそう言うと、何事か佐助に目配せする。佐助は無言のまま屏風のぞきを摘みあげると、ずるずると引きずりながら襖をきちんと閉めて寝間から去った。

「屏風のぞきの言うことを、気にしないで下さいね」

後に残った仁吉が、若だんなの首にまで夜着を掛けながら、ぽつりとそう言った。優しげな声であったが、仁吉のその顔はどこか儚げだ。
若だんなは兄やに向かって首を横に振った。

「本当のことだもの……気づかなかった、私が悪いんだよ」

そう言ってから、兄やに「ごめんよ」と小さく呟いた。若だんなを見つめる仁吉の顔が、ひどく切なそうに、歪められていく。
だが、と今度は仁吉がその首を横に振ると、ぐっと寝ている若だんなに顔を近づけてこう囁いた。

「あたしは若だんな一筋です」

すぐ後に「本当ですよ」と、いつにも増して強く、真剣にそう仁吉が囁いたものだから、若だんなはその顔をさっと赤くさせ、困ったように視線を反らしてしまった。

「逃げないで下さい、若だんな」

優しく、ひたすらにどこまでも優しく仁吉が若だんなに囁きかける。目を合わせてくれない若だんなの指先を取って、きゅっと握り締めて逃がすまいとする。

「に、仁吉……」

「あたしの気持ちは口に出さずとも、若だんなはとうに御存じなんでしょう?」

熱があるわけでもないのに、身体中が熱いと若だんなは感じた。
隣の居間に屏風のぞきと佐助が居るはずなのだが、今はそれどころではなく、目の前に迫る仁吉のことしか頭に浮かんでこない。優しくも不敵に微笑む仁吉のことしか、若だんなは考えられなかった。

「私だんな……、あたしは」

仁吉が何事か言いかけて、耐えかねたように若だんなが、隣の居間に聞こえるように声を上げた。

「佐助…っ!」

そう一声若だんなが上げると、仁吉は名残惜しそうに若だんなから離れてきちんと座り直す。それと同時に、隣の居間からどすんと屏風の鈍い音がして、佐助がすぐに襖を開けた。

「若だんな、どうされましたか」

「みっ、水を持ってきておくれ…早く!」

若だんなが顔を真っ赤にしてそう言ったものだから、佐助は離れに水差しがあることも忘れて、また死にかけてもらったのでは大変だと慌てて母屋へと走っていった。

「あー……折角調子が良くなってきたかと思ったのに、これじゃぁ佐助に心配されて、それどころじゃないよ」

若だんなは困った顔をして、そう溜め息を零しながらこれは誰のせいなんだとばかりに、水差しを差し出してきた仁吉を睨んだ。

「安心して下さい。若だんなのことは、あたしがちゃんとお世話しますよ」

なんとも嬉しそうに仁吉が笑ってみせたものだから、若だんなは呆れに呆れ返って、呆然と仁吉を見つめ返した。
頭の端に、ちらりと昨晩の話が蘇る。

(おばあさまもこんな苦労をしたのかな……。ああ、私はどうしたらいいんだろう)

若だんなはその先の答えを出す事ができず、ただもう恋慕の話はするもんかと、兄やの顔を見つめながらその頬を、ほんのり赤く染め直したのだった。



2008.0207



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