さむさしらず
「やっぱり冬は、寒いねえ」
そう呟いたのは、最近調子がいいからと母屋で夕餉を済ませ、たった今離れに戻ってきたばかりの若だんなだ。
歩きなれた庭先を渡っただけであるのに、流石に霜月の夜は寒いと、離れの火鉢にくっつきながら苦笑する。
そんな若だんなの呟きを漏らさず耳にした仁吉は、若だんながしまった!と後悔する間も与えずに、分厚い掻い巻きを着せてよこした。既に二枚、着ている上にである。
「手が冷えてしまっていますね。やはり、離れで夕餉を召し上がった方がよかったんじゃないですか?」
丸くなった掻い巻きから覗く白い手を取って、きゅっと握りしめながら、仁吉がその秀麗な顔をしかめて訊ねてくる。
寒い思いをしてわざわざ母屋に渡らなくとも、若だんなの為にとたっぷりと炭がくべてある暖かい火鉢のある離れで、夕餉を食べればいいと仁吉は薦める。
「調子がいい時くらい、おとっつぁんやおっかさんと一緒に食べたいよ。……それに、冬が寒いのは当たり前の事さね」
握りしめられたままの己の手から不自然に視線を逸らし、真剣に訴えてくる仁吉を宥め、火鉢の周りにいる小鬼達を若だんなは眺めやる。火鉢の横でうとうとしている鳴家や、若だんなが着ている掻い巻きの下に潜り込む鳴家など、皆暖かそうにぎゅいぎゅいかしましい。
(いつまで握っているつもりかしら……)
会話が途切れた途端、どうしてか握られた指先の熱が上がった気がして、若だんなは仁吉の顔を見れずに俯いた。俯き黙り込んでしまった若だんなを不思議に思ったのか、仁吉が小さく「若だんな?」と名を呼ぶ。
返事をしなければ、過保護な兄やにいらぬ心配されてしまうかもと、若だんなが口を開きかけたその時。
「寒いっていうわりには、顔が随分赤いねえ」
そう言って離れの隅にある屏風から出てきたのは、屏風のぞきだ。
寒い冬には些か似合わぬ市松模様を火鉢越しにゆらめかせ、その登場に助かったと顔を上げた若だんなに近づき、にやりと笑う。
「兄やさんよ。若だんなはお困りのようだ」
屏風のぞきの言葉に片眉をすっと上げた仁吉が、やっと若だんなの手を離した。
熱が遠退いた己の指先を見つめる若だんながほっとしたのも束の間、ふらりと現れた離れの妖の物言いが気に食わないらしい仁吉が、火鉢を挟んでその目を細める。
「若だんなが何に困ってるか、わからないって顔してるね。自覚が無いってのも罪な話だよ」
「いきなり戯れ言を言い出すかと思えば、一体何の事だい?」
普段から折り合いの悪い二人の妖は、まだ一言二言交わしただけであるのに酷く険悪だ。
いつもならばその力が圧倒的に強い仁吉がすぐに倒してしまいそうだが、どうやら今夜の屏風のぞきは強気のようで、若だんなの肩に手を掛けて面白がるように口を開いた。
「今はさっきよりも良さそうだねえ。さて、これが何故だか兄やさんはわかるかね?」
火鉢の火照りだけではない紅潮した若だんなの頬を横目に、さあどう出る?と真正面に座る仁吉を挑発する。仁吉は、若だんなの肩に手を掛けた屏風のぞきを半目になって睨んだが、すぐにその関心は目の前にいる若だんなへと切り替わった。
「顔が赤いですね、若だんな。熱は……無いようですが」
屏風のぞきへの怒りはたちまちどこかへ行ってしまったようで、面白くないと己の本体に戻ってしまった妖のことなど微塵も目に入らない様子で、仁吉は若だんなの額に手を乗せる。
(わっ……ち、近いよ!)
額に触れた熱よりも、じっと見つめてくる視線の強さに総身が熱くなる。
「仁吉、私は大丈夫だよ。何ともないから……」
だから、その、ええと、と口を濁す若だんなを見た仁吉が、それはそれは真面目な心配顔で、ぐっとその身を寄せてきた。そうして再び、若だんなの両手を握りしめる。抗う間もなく握りしめられた両手を包む手が、先程よりもひんやりとしていた。
「屏風のぞきの戯れ言など気にしたくはありませんが、何ぞあたしに言えない事がおありなんですか?」
今まで幾度となく兄やにさせてきた心配顔は、いつにも増して暗い。
病弱な人の何倍も病弱な若だんなが数え切れない程の寝付いている事を、仁吉はよく知っている。いつもその側に仕え、守り、看病してきた兄やは、どんな些細な事であれ、若だんなの事が心配なのだ。
だから、隠し事はしないで欲しいと、仁吉が懇願する。
(兄や……)
浅はかな態度でいらぬ心配をさせてしまったと、若だんなは己を恥じた。
そうして、両手を包む兄やの手のひらに優しい視線をひとつ落としてから、顔を上げて真正面から仁吉を見つめる。
正直な思いを告げようと開いた口は、思いがけず小さな呟きしか吐けなかった。
「手を……握られるのが、恥ずかしかっただけだよ」
もう童ではないのだし、いつまでも幼子のような甘やかしはいらないよと、顔をさらに赤くさせながら若だんなは呟いた。
上目遣いで仁吉を見ると、寸の間言葉を失った様子で、だがすぐに何か言おうと口を開く。
何故か先程よりも体を密着させ、その端麗な顔を寄せてくる兄やに得体の知れない熱を感じた若だんなは、何か言わせる前にと言葉を続けた。
「でもね」
そう言いながら、若だんなは握りしめられていた手を一度解いて、今度は己の手で仁吉の両手をぎゅっと握りしめた。
呆気にとられている仁吉に、若だんなははにかんで笑った。
「たまにはいいかもしれないね」
今日みたいな、寒い冬の日には。
少し恥ずかしいけれど、たまになら、今だけならば構わないかもしれない。
「……では、佐助には内緒にしておきましょう」
今だけの、あたしと若だんな二人の秘密ですと、にこりと笑った仁吉に、また顔が赤くなる。
触れ合った手のひらから伝わる熱は、その晩、冷めることはなかった。