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藤兵衛が一



「ああ、行ってしまった……」

箱根へ湯治に向かう若だんな達を乗せた舟が、岸から見えなくなるまで見送って、おたえは川の水面に向かってそう零した。
湯治を勧めたのは紛れもなく己だが、やはり大事な息子と暫しの別れとなれば、母はものすごく寂しい。

「これから暫く寂しくなるねえ」

京橋近くから、見送りに来ていた奉公人らと連れ立って歩く藤兵衛も、同じように感慨深く嘆いている。
だが、おたえの不安は夫以上になかなか消えないようで、一人でぶつぶつ心配をし始めた。

「持たせた着替え、ちょいと足りなかったかしらね。私も荷造り手伝えばよかったかしら。それから、あれとこれと……」

藤兵衛は、算術を教わったばかりの幼子のように、指折りあれこれ数える妻を隣に見ながら優しくその肩を持った。

「おたえや、そう心配しなくとも大丈夫だよ。荷造りなら、仁吉達が全て調えていただろう」

「でもねえ、お前さん、やっぱり一太郎が心配で」

そう言うおたえの肩に乗った手に力が一寸(ちょっと)加わる。顔を横に見上げれば、そこにはいつもの長崎屋藤兵衛の笑顔があった。

「稲荷神様の御信託があったんだろう? 大丈夫だよ、おたえ」

そう言われ、おたえはそうかもと素直に頷いた。夫であるとはいえ、流石に大店をまとめている主人なだけあってか、藤兵衛の言葉には強い説得力がある。藤吉と名乗っていた手代の時分から、藤兵衛にはその様な才があったように思えるが、商売以外でもそれを発揮できるのはやはり長崎屋主人になった後でのことだろう。

(でも、それだけじゃないけどねえ)

この日、初めて穏やかな笑顔を見せたおたえは、夫の隣から離れずに長崎屋へと帰途についた。




「なあ、おたえ」

昼餉もとうに過ぎた長崎屋の中庭で、そうおたえに声をかけてきたのは守狐だ。
人目がないことを良しとして、庭に立つ稲荷からするりと出でて、おたえの足に絡み付く。稲荷に供え物を置いた後で、その顔に妖らしい嫌な笑みが浮かんでいるのを見たおたえは、足下を手で払いながら守狐を睨んだ。

「どうしたの? 昼間に顔を出すなんて、何か用?」

そう言うと守狐は大げさに顔を前足で覆い、おたえが冷たい、冷たいと嘆いたふりをする。あんまり放って置いて、奉公人に気づかれたりすれば厄介なことになりかねない。
おたえは一つ息をついてから、しゃがみ込んで守狐の機嫌を伺う。すると案の定、守狐は何という風でもなく、突然ぺろりとおたえの鼻の頭を嘗めた。

「一太郎が旅に出たそうだな。これで少しは、お前さんも子離れできるかね」

守狐はそう言うと二本足でひょいと立ち上がり、しゃがみ込んでいるおたえを見下ろす形で、だが知っているか?と意地悪く笑う。

「箱根には江戸にはおらぬ数多の妖がいるのだぞ。その中で、あの病弱な倅の共が手代一人と白沢と犬神だけとは心許ない。……まぁ、何も起きなければそれに越したことはないがな」

聞いたおたえの顔が青ざめていく。
おたえの守りである守狐は、そんな顔を前にいつもなら慰めにかかるのだが、今日はそのまま言葉を続ける。これは憶測だ、憶測だという守狐の顔から、いつの間にか笑みが消えていた。

「今朝は何故だか烏どもが五月蝿かったな。一太郎の守りが気づいてないはずはないだろうが……さて、私の気にしすぎならいいが、な」

守狐の鋭い物言いにおたえは返す言葉もない。
消えかけていた不安は、山となり波となり、再び押し寄せてくる。まさか、と思うが一度湧いた不安はなかなか消えるものではない。

(おっかさん……!)

おたえは素早く立ち上がると、目の前に立つ稲荷に向かって手を合わせた。その手が微かに震えているのを見て、罰が悪そうに守狐が足下から声をかける。

「憶測だと言っただろう。皮衣殿のお導きによる湯治の旅だ。孫の身に何か起きることなど、ないだろうよ」

「ならどうして、困らせるようなことを言うの?」

手を合わせたまま、きつく守狐を睨み問い詰めると、くるりと宙を回って、早々稲荷の中へと消えてしまった。

「何故って、おたえが倅を心配していたからな。守りとして、それに助言しただけだろう」

消える間際の守狐の言葉に、おたえは頬を膨らませる。
だが、ずうんと小さな揺れが走った瞬間に、その顔は不安の色で塗り固まっていた。



若だんなが長崎屋を発ってから早三日が過ぎた。
江戸でも相変わらず地震は続いているが、ここ数日は極々小さな揺れであるので、長崎屋でもそれを気にする素振りはない。
ただ、一人を除いては。

「若だんなはきっと、丈夫になられてお帰りになられますよ」

「兄やさん達が一緒ですもの。心配無用です」

「おかみさん、箱根までは船で行くんですよ。若だんなが疲れることなぞありません」

あれから少し塞ぎ込みがちのおかみを励まそうと、長崎屋の奉公人達は当たり障りのないよう、優しい言葉をおたえにかけるのだが、今ひとつ、その心は晴れないでいた。

(守狐のあれは、ただの憶測だってわかってはいるけど)

そう己に言い聞かせているのだが、湧きあがる不安がどうにも消えてくれない。もし……もし、万が一でも一太郎に何かあれば、庭の稲荷からお告げがあるはずだし、そもそもこの湯治は地震ばかりの江戸から遠ざけるために母が示した神託だ。いつまでもそれに不安を覚えるというのは、母を疑っているようで、二重の意味でおたえも苦しい。
そんなおたえを見かねた狐達は、昼間でも構わずおたえを励まそうと、今日もおたえの部屋に顔を見せている。

「おたえ様、大丈夫ですから、そのように悲しい顔をしないで下さいな」

「御身も皮衣殿の娘であろう。いい加減安心をせぬか」

「先日余計な戯れ言を申しました守狐はほれ、この通り懲らしめました故」

「ふんっ」

額にたんこぶを一つ作っている一匹を除き、あれこれ狐達はおたえを慰めにかかるがあまり効果はない。
そのうち各々の慰め方が悪いと、狐同士で言い争いを始めたが、おたえはそれにも興味がなく、文机に手を付きため息を零すばかり。その様子を見ていたのは、先日いらぬ憶測をおたえに零した守狐で、少し戸惑った後、いつものようにするりとおたえに近づいた。

「おたえ。いい加減、機嫌を直せ」

私も周りの皆もお前が心配なんだぞと、そう守狐が言うと、やっと言葉が聞こえたのか、文机から手を離し守狐に視線を合わせた。

「先日は悪かった。いらぬ助言をしたのはだな……」

そこまで口にして、守狐はちょいと照れくさそうに尻尾を振る。言葉の続きを急かせるわけでもなく待っていると、やがて小声で「おたえの関心を向けたかったのだ」と守りが明かしたので、夫と添ってしまってから、守狐は少し寂しく思っていたのかもしれないとおたえは感じた。
だが、守狐はおたえを不安にさせているのは己の責任ではないと思っているらしく、店表の方に向かって、何やら思いきり悪態をついている。

「しかし、おたえが一人で塞ぎ込むのはどういう了見だ? 長崎屋藤兵衛は、泣く妻を慰めることもできぬと見える」

仁吉や佐助の一番が若だんなであるように、憎たらしい口をきいていても結局の所、守狐はおたえが一番大事であるので、どこでそうなったのか、いつの間にか狐達の矛先は夫へと向けられている。それに一寸困り、おたえは慌てて否定の旨を述べた。

「あの人は忙しいから……それに」

(同じ親だもの。私に負けないくらい、一太郎のこと思ってるに違いないわ)

そこまで言いかけてから、またため息を一つ零す。そんなおたえに言い争っていた狐達も近付き、皆、前足で軽く背や肩を撫でるが、その優しさが逆効果なのか、「大丈夫だから、一人にして」と言われてしまった。
こう言われてしまうと、守狐達は渋々退散するしかない。しかし、たんこぶを作った守狐は部屋から消える間際に耳に届いた足音を聞き、気に食わない、気に食わないと小言を零している。

(……ふん。随分と遅い登場だ)

だが、これでおたえの心が晴れるのであれば、守りとしても嬉しい限りである。

(今日のところは退いてやろう)

何故ならば、おたえの隣は夫のものだから。
守りである己は、遠くから見守るものだから。

「よかったな、おたえ」

「え?」

去り際にそう言った守狐の言葉に顔を上げると、おたえの目の前に藤兵衛が立っていた。

「おたえ、皆が心配しているよ。具合でも悪いのかい?」

柔らかく笑ってそう訊ねながら、藤兵衛は手に持っていた菓子鉢を文机に置いた。

「私も一息つこうと思ってね。おたえも食べなさい」

昨日、一昨日と夫婦でゆっくり話をする時間がなかったおたえは、夫の問いも返さず暫く黙っていたが、菓子を食べる前にと、少し遠慮がちに不安に思っていることを告げた。

「心配しているのは皆一緒だとわかっているのに、どうにも不安が消えないの」

今から箱根について行くわけにもいかず、ただ店で祈ることしかできないのが歯痒い。何より、忘れかけても地震がする度に不安が募る。
そう嘆く妻を前に、藤兵衛は一寸目を瞑ると、深く息を吸った後におたえの名を呼び、目と目をじっと合わせた。

「あの子には仁吉も佐助も、松之助だって付いてる。万に一つ、何も起こりはしないよ」

不安に思うことは何もないと、優しい中にも確固たる思いを込めて語りかける。
語りかけながら菓子鉢をこちらに寄せてくれたので、中身が蕎麦饅頭であることがおたえにもわかった。

「何より一太郎は、私達の息子じゃないか。大丈夫だよ。安心なさい」

祈るより、信じていればいいんだよと、藤兵衛は言う。
その柔らかな声を聞くだけで、不思議なことに胸の不安がすうっと薄れていく。
返事をしないかわりに、差し出された蕎麦饅頭を口にした。それはよく食べ慣れた三春屋のもので、素朴な味わいがどこか懐かしい。

(後で守狐にもあげようかねえ。離れの妖達にも持っていってあげようかしら)

我知らず笑みが零れ、そんなおたえを見て、安心した藤兵衛も笑った。
これで不安がなくなるとはおたえも思わないが、藤兵衛が隣に居てくれるだけで、頑張れる気がする。
辛い時にこそ、藤兵衛がいてくれると気持ちが楽になるのだ。

(ああ、やっぱりこの人は……)

暖かくて優しい。
餡を包む饅頭の皮のように柔らかで。
その口から出る言葉は今も昔も、おたえの心を安心させてくれるのだ。
己も一つ手に取り、饅頭を食べる藤兵衛を見つめ、なんと言ったらいいのかわからないまま、ただ一言「おいしい」と、おたえは笑った。



うそうそ番外編/2010.1116




あきゅろす。
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