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陽光(リメイク前)
消えない迷い


「彼が忘れたのは自分に関する事と、今まで築いてきた人間関係の全て。原因は恐らく、精神が崩壊してしまうのを避けようとした防衛本能によるものね」

 木梨先生から、私は夜月くんの容態について教えられた。
 保健室には彼と深空さんがいるため、私は隣室で話を聞いている。

「日常生活をする上での常識や知識は問題なく覚えていたから、普段の生活に戻りつつ、経過を見るしかないわ。

 時間が経てば、記憶は戻るかもしれない」

 それはつまり、同時に『記憶が戻らない可能性もある』ということ。
 私は顔を俯かせて、膝に置いていた両手をぎゅっと握りしめる。

 私のことを、誰だと言った夜月くんの。戸惑いに満ちた顔が、頭から離れなかった。

「自分の力や受けた枷、そして父親の事。それに伴って起きた、様々な人間関係と心の変化……。とにかく彼はずっと昔から、こと人間関係については悩み続けていた。

 記憶を失ったのは、その積み重ねていたものを壊さなければ、もうどうしようもなかったから……なのかもしれないわ」

 記憶を壊してしまわなければ、どうしようもない程に……夜月くんの心は、ぼろぼろになっていたんだ。

 ――そうなったのは、いつからだろう?

 夜月くんが、思い出の男の子だと気付いた時。あの時は、夜月くんは笑ってくれていた。
 だから心境の変化が起きたとすれば、それより後……だと思う。

『……元々、僕なんか必要なかった……』

 彼の消え入りそうな声を思い出す。それだけで、胸がぎゅっと締め付けられた。

「……光咲さん。風羽君の様子を、よく見ていて。そしてもし、何か少しでも不審な点があれば私に教えて頂戴。

 ――貴方が良ければ、だけれど」

 恐らく、私のことを気遣ってくれているんだろう。木梨先生は神妙な面持ちで、私の答えを待っている。

「…………。すみません、夜月くんと話は出来ますか……?」

 問いに直接答えず、私は夜月くんとの会話を求めた。
 さっき彼から逃げ出してしまった手前、すぐに答えは出せないと思ったからだ。

「……分かったわ。少し待っていて」

 先生も、それを察してくれたみたいで。そう言い残し、部屋から出ていった。

「…………」

 ひとりになると、どうしても心細くなってしまう。

 ――数時間前。彼から逃げ出した私を、西園寺さんは追いかけてきた。もちろん、夜月くんのことを木梨先生に話した上で、だ。

 西園寺さんは、私がいっぱい泣いて落ち着くまで、何も言わずに傍にいてくれた。
 そうして、私が彼の元に戻る決心がついたと言えば、優しく背中を押してくれたんだ。

「……光咲さん。いいわよ、こっちに来て」

 回想している内に、木梨先生から許可が下りた。
 私は立ち上がり、彼のいる隣室へ向かう。


「あ……君は、さっきの」

 私を見た夜月くんは、少し驚いたように目を見張った。

「……ごめんね。いきなり走り出したりして……びっくりしたよね」

「いえ、大丈夫……です。……知り合いがいきなり記憶喪失になっていたら、取り乱すのは当たり前……だと、思いますから」

 『知り合い』。夜月くんが何気なく口にしただろう単語に、私はどうしようもなく寂しくなった。

「あの……光咲さん、ですよね」

「……!!」

 一瞬、息が詰まる。
 『光咲さん』……。今になって、彼が『ひなた』と呼んでくれた時の声……声色を、思い出した。

「先生方から、聞きました。僕が眠っている間、君はずっと僕の様子を見に来てくれていた……と。

 その、……ありがとうございます」

「そんなの……大したことじゃないよ」

 私がそうしたかっただけなんだから、と夜月くんに笑いかける。……とにかく冷静でいようと心がけながら。

「……質問をしてもいいですか?」

「ん……なに?」

「…………」

 夜月くんは緊張しているのか、僅かに躊躇う素振りを見せた。
 でも、やがて決心がついたのか、私をまっすぐに見据えて。

「……君と僕は、どんな関係だったのでしょうか……?」

「……!」

 その質問は。私にとって、ちゃんと答えなければならないものだった。
 予想外のことに、心臓の音がどくりと身体中に響き渡ったような気がする。

「僕達はクラスメイトで……同じグループ、なんですよね? ……それだけ、ですか?」

 それらの情報は深空さんか木梨先生から聞いたのだろう。たどたどしい口調で夜月くんは告げてくる。

「…………。私に、……私に、とって。夜月くんは、かけがえのない……大切な人だよ」

 夜月くんだって、きっと私を大切にしてくれていた。屋上でそう言ってくれた彼の眼差しは、真剣そのものだったから。

 それが分かっていたのに、私は。……今更になって、夜月くんにちゃんとそれを伝えることが出来た。

「その言葉以外で、なんて表現したらいいのか分からないけど。――……それだけは、確かなの」

 胸の痛みが激しくなっていくのを無視して、私は夜月くんにそう伝えた。

「……そう、なのですか……」

 夜月くんは、今までのことを忘れているからこそ……私の言葉を、そのまま受け入れてくれたらしく。思い悩むように眉を潜めた。

「…………ごめんなさい。何も、覚えていなくて」

「ううん……いいよ。仕方がない、もの」

 私が、もっと早くこのことを伝えられていたら。夜月くんがこうなることは、なかったのかもしれない……。

「……もし分からないことがあったら、これからも遠慮なく聞いてね」

「はい。ありがとうございます」

「……!!」

 その時。ふっと、夜月くんの表情が和らいで。

 彼は――微笑みを浮かべていた。

 それは今まで見たことのない、明るい笑顔で。彼が今まで抱えていた苦悩がどれだけ大きかったのか、ありありと感じられるものだった。

「……光咲さん? どうかしましたか?」

「あ、ううん。何でもない、よ」

 首を傾げる彼に、私は慌てて返す。
 感情豊かで、明るい彼……。


 それから二日後。私は、夜月くんに学園を案内することになった。
 翌日から日常生活に戻るため、学園について把握しなければいけないからだ。

『光咲さん、お願いできませんか』

 案内役に私を指名した時の、夜月くんの声を思い出す。
 私からすれば、断る理由なんか勿論ない。けれど、複雑な気持ちもまた、拭いきれないままだった。


「それで、ここが食堂。昼食は大体ここで取ってる人が多いかな」

「そうなんですか……」

 今は放課後だから、人はまばらだ。
 夜月くんは辺りをきょろきょろと見回す。その様子は、見慣れないものに興味を抱いている子供みたいだった。

「僕も、ここによく来ていたんですか?」

「うん。昼には皆で一緒によく来てたよ。……この場所自体は、あまり好きじゃなかったみたいだけど」

「なぜですか?」

「……夜月くんは、人の多い場所が苦手だったから」

 「そうだったんですね」、と夜月くんは納得したように呟く。
 なかなか人に存在を気付かれない彼は、そのせいか人混みを嫌っていた。

 でも、最初は土盾くんに引っ張られるような形ではあったけれど、最近は一緒に食堂へ来るのが当たり前になっていたように思う。
 それは夜月くんの中で、私達と過ごす時間を大切にしてくれているようで……嬉しかったんだ。

「……なにかあったら、言ってね」

「はい。ありがとうございます」

 なにかあったら、じゃなくて。『なにか思い出せそうだったら』、という意味合いを含んだ言葉は、夜月くんには表面上のもの以外は届かなかったみたいで。彼は笑みを零すだけだった。

 ――ちゃんと言葉にしなきゃ、相手には伝わらないのに。

 前に自分が夜月くんに言ったことが、実践できないでいる。
 今、本心を伝えようとすると。彼を困らせたり、酷いことを言って傷つけてしまうような気がしたから。

「……どうかしましたか……?」

「あっ、ううん、大丈夫……」

 知らず俯いていた私の顔を、夜月くんが覗き込んできて。その眼差しを直視出来なかった私は、すぐさま取り繕うように笑った。


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