SHORT
あたたかい夜
今夜もまた、雪。
ゆっくり、ゆっくり、雪が舞う。
軽やかに、気まぐれに、揺れて舞い落ちる。
氷の張った窓の向こう。
奥は深い藍に染まり、前は白い雪が藍に重なり、上から下に流れ落ちていく。
あまりにゆっくり雪が舞うものだから、まるで雪が空へ舞い上っているような錯覚を起こす。
ふいに零れた息が白く靄のように広がって、漸く唇が冷たくなっていたことに気付く。
マグカップを包む手は熱く、霜焼けに似た痺れた感覚を取り戻す。
熱くなった手を頬に当てるとあたたかくて冷たかった。
さむい。
入って来た部屋のドアを閉め切って漏れる明るい光を遮断する。
部屋は音を忘れたように静かで、動くものは外から差す冷たい明かりに照らされる雪の影だけ。ちらちらと雪の影が床とベッドの上を流れて行く。
窓のすぐ下にある、部屋に一つだけしかない大きなベッド。
その上には小さな山が出来上がっていて、ベッドを占領している。
僕は申し訳程度にベッドに腰掛けて先客を尻に敷く。
「ぐっ!」
マグカップの口に唇をつけると、ミルクココアのあたたかくて、あまくて、やわらかい香りが広がり、そっと口に運べば思いのほか熱すぎず、ミルクココアは口の中を滑って行った。
こくり。とのどが鳴る。
あたたかい。
僕の尻の下がもぞもぞ動くので腰を浮かしてやると、“そいつ“はのっそり奥の方へ移動してくれた。
「僕のとこ、あたためてくれてたんだ。ありがと」
「ちげぇし」
ベッド脇のサイドテーブルにマグカップを置いて、代わりに本を手に取り僕もベッドの中へ潜る。
あたたかい。
「俺んとこ冷てぇんだけど」
「そ。きっとすぐにあたたまるよ」
僕のとこは“俺“のおかげであたたかい。
「さむい」
ぎしり、とベッドの軋む音がしてランプのスイッチを探す手元に影が差す。
隣りを見ると、外からの明りを遮って“俺“が上半身を起こしていた。
目の前にある影の中の顔は不機嫌そうに目を細めている。
僕と同じ顔。
同じ顔のつくり。
だけど違う顔つき。
僕と同じで違う。
冷ややかな青い光を背後から浴びて、硬質さを帯びる“俺“。
一つであったはずの僕等は遠い昔に二つに分かれた。
“僕”と“俺“の二人の人間になった。
“僕”と“俺“、二度と交ざることのない存在に。
僕の目の前を同じ顔が通り過ぎる。
“俺“が手に取ったのは、サイドテーブルに置いてあった僕のミルクココア。
「あ」
僕のミルクココア。
ぐびっと景気よく飲む音。
そういう飲み物じゃないのに。
「あっつ…っう゛! ぁあ゛っま!」
甘いものを飲んだはずなのに、漏れたのは渋い声。
再び僕の前を通り過ぎる顔は僕のものと同じとは思えないほど顰められていた。
「うぇぇ、おっまえ何杯ココア入れたんだよ……」
「四杯だったかな」
「ありえねぇ……」
ミルクココアは甘いものです。
「あ゛ー、のどにくる……」
のどを押さえて渋そうに舌を突き出す。
そんな大げさな。
「口ん中あめぇし、さみーし、最悪……」
少なくとも口の中があまいのは自業自得なんだけどね。
読書する気も失せて、本を放り、
「いてっ」
「あ、テーブル反対側だった。間違えた。ごめんね」
本を元の場所に戻し、布団の中に深く潜る。
「 オ イ 」
「何かな」
「口ん中あまい、さみー、顔がいてぇ」
「そ。ほっとけば治まるよ」
僕に報告してどうする気なのやら。
僕にはその感覚を共有することも、代わりに処理できるわけでもないのに。
トイレに行きたいと言われても、僕が代わりに尿意を引き受けてトイレに行ってやることが出来ないように。なんか違うかも。
もそり、と隣りが動いたのは分かっても僕は無視を決め込む。
でも、僕の肩が引かれ、僕は上を向かされた。
目があった。真っすぐ“僕”を見る“俺”の目と合った。
「……口直しくらいさせろ」
落ちてくる僕と同じ唇に、僕は頭を少し浮かせて僕のそれで受け止める。
あまいミルクココアの味がする。
そう言えば、僕のミルクココアだったんだ。
じゃあ、取り返さないと。
僕のミルクココア。
僕のもの。
「……っん、はぁっ、んぅ……」
離されて、追いかけて、奪う唇。
“それ”は“俺“のもの。
だから僕は奪う。
“俺“が僕のミルクココアを奪ったように。
「っぷは…は…お、おっまえ、やりすぎ……」
顔を掴まれて離された唇からは名残惜しげに唾液が糸を引き、離れた。
「口直しになった?」
「ああ、なったなった」
口元を乱暴に拭いながらおざなりに答える、“俺“。
僕のミルクココアはちゃんと僕の元へと戻って来た。
「顔いたいの治った?」
「あぁ? ……んなもんどっか行った」
「そ。良かったね」
それじゃあ寝ようか、と頭を引いて“俺“の首裏から手を離そうとすると、その手を掴まれた。
「……まだ良くない。さむい。俺から離れんな」
影の中で見える“俺“の目はまったく寒そうには見えない。あたたかそうだ。
「こいよ、さむい」
「そだね。さむい」
“僕”と“俺”、互いの身体をたぐり寄せてその温もりを抱きしめる。
二つに分かれてからは“僕”は“俺“ではなくなり、“俺“も“僕”ではなくなった。
一つであった頃の記憶も懐かしさもない。
同じ姿を成していても違う存在として在り、個で在ろうとその形を変え、僕等は対ではなくなった。
“僕”と“俺”、二人の人間。
“僕”と“俺”は別の存在。
二度と同じモノになることはない。
だけど
二人だから僕らにはに分かつものがある。
重ねるからだ。共有するあたたかさ。交わる視線。
一人では凍えてしまう夜だけれど、僕にはもう一人の“俺“がいて、“俺“にも僕がいる。
僕らが一つじゃなくて、二人でこんな風にお互いがお互いをあたため合えるから――
僕は“俺“の腕の中で、僕の腕の中で“俺“は、その温もりをぎゅっと抱きしめる。
あたたかい。
あたたかい身体を突き刺すような朝の寒さ。
ブランケットをベッドから剥いで体に巻きつけると夜の温もりを感じる。
ふっと息を吐けばうっすらと白い靄が出る。
窓を見ると白かった。
また霜が降りた。
でも、僕の片割れはこの景色を見て飛び上がるに違いない。
この寒空の下遊ぼうと誘って来るんだ。これは決定事項。
ベッドの方を振り向いて思い出す、昨晩の飲みかけのミルクココア。サイドテーブルに置いておいたマグカップを手に取る。
でも、マグカップを覗き込めど、底にはうっすらと茶色が円を描いているだけだった。
「僕のミルクココア……」
ベッドを見やれば呑気に寝てる“俺“
よくよく見れば、“俺“の口の周りにはまだミルクココアの跡が残っている。
舐め取り忘れたのか、あの後にまた飲んでくれたのか。
とにかく、僕のミルクココアを飲み干してくれたお礼をしないと。
「おはよ。レオくん」
んちゅううううう
「…ん……っぐ…んっん〜〜〜〜っ!!」
目覚めたてでもばたばた暴れるレオくんは元気だ。その身体を抑え込む僕も朝からいい運動になる。
「や、やめ……んんっ……レキ!」
今のうちに身体を動かしてあたためておこう。
積もった雪は冷たい。
澄んだ空気も冷たい。
だけど、夜が明けた。
雪が止んだ。
あんなにふらふら舞っていた雪だったのに、まるで雪が空を舞っていたとは思えないほどに、空と積もる雪は切り離されていた。
氷の張った窓の向こう。
上は淡い水色が伸び、下は雪の白さが地平線で空色と分かれ、相反する二つの色がどこまでも広がる。
おだやかに、あたたかく、日差しが二色を包む。
透明で、澄み切った空気が、反射する空と雪の光を拾う。
今日は快晴。
あたたかくなりそうだ。
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