Re1:The first sign
F
蝋燭の微かな燈が、暗い部屋を仄かに暖かく照らしている。
時刻は深夜2時過ぎを廻ったが、まだノアに睡魔は訪れていないらしい。
彼の正面にあるデスクの上は、ランプ、煙草の灰皿や走り書きのメモのような紙切れ、アクセサリーや知恵の輪など――…とにかく色々な物でごちゃごちゃと散らかっている。
そんなスペースすらないデスクの上に、更に彼は不躾にも両足を乗せ、膝の上に革表紙の分厚い本を乗せていた。
この本を読み始めてから、結構な時間が経っていた。
カチカチと秒針が刻む音に、時折ぱらりと頁を捲る音が重なる。
ノアは読書などの細かい作業に集中したい時にだけ、黒いフレームの眼鏡を着ける習慣があった。
レンズの奥の黒い瞳を真剣に細めながらも、彼は文字を追っている。
「――…ん、ぅ…?」
ふと寝呆けたような声が聞こえ、ノアは振り返った。
この部屋に一つしかない寝台の上で、白いシーツがごそごそと動く。
「…まだ、起きてんの…?」
そう言って顔を見せたのは、アイリスだった。
ぼうっとした頭を起こすように寝呆け眼を擦りながら、ゆっくりとノアを見る。
「起こしたか?」
「ううん…ノアは?寝なくていいの?」
「ああ」
ノアは素っ気ない返事をすると、再び視線を本へと戻した。
そんなノアの様子に、アイリスは少なからず驚きを隠せなかった。
――…意外。読書とかするんだ。
アイリスはシーツを退け、床に足を付けた。
元々癖のある自分の髪をいつものように結い、大きく伸びをする。
「やっぱりベッド、占領しちゃ悪いよ。あたしはそっちのソファーで充分だから」
そう言って、薄手の毛布を手にソファーへ移ろうとするが、すかさずノアの鋭い視線に射抜かれた。
「いいから、そのまま寝てろ」
「でも…」
「折角シーツもカバーも全部変えたんだから。それで我慢しろ」
言われて、アイリスは眉根を寄せた。
確かに昨夜ノアは、このベッドで男と寝ていた。
それに対して嫌悪感が全くないとは言い切れない。
けれど、やはり自分は居候で雑用なのだから、リーダーの寝床を奪う訳にはいかない。
「それとも、一緒に寝ていいのか?」
「コロス」
「冗談だよ」
クッと喉を鳴らしてノアは笑った。
眼鏡を外し、本と一緒にデスクに置くと、ノアはアイリスの方へ向き直った。
「なぁ、聞いていいか」
「…何?」
「レックスってどんな奴なんだ?」
思いがけない質問にアイリスは困惑して目を丸くした。
だが対するノアは、こちらの反応に興味津々といった感じで笑っている。
アイリスは、敢えて冷静に振る舞おうとベッドの端に腰掛けた。
「いきなり、何?」
「前から気にはなってたんだよ。
北の果てのヘンピな村から、こんな都会まで一人で探しに来る程の奴。
しかも俺に似てて、おまけにジルクスの兵士。
…とまぁ、理由は色々だ」
「ヘンピは余計だっ」
確かに、此処にいる以上詳しい理由を話さなくては駄目なのか。
けれどアイリスは口籠もってしまった。
どうにも話す気になれない、というか話したくない。
同じ顔を持つ、この人にだけは。
「アイリス?」
「…じゃあ、あんたの話から聞かせてよ」
その言葉に、ノアは目を見開いた。
「前言ってたあんたの大事な人の話。聞かせてくれたら、あたしも話す」
「は…、交換条件かよ」
この女、鈍そうなくせに妙な所で頭が冴える。
ノアは呆れる半面、感心すらしていた。
「いいぜ」
ノアは笑みを見せながら本を閉じ、床の上に放り投げた。
その光景を見ながら、ああ…こんな風に適当な性格だから部屋が片付かないのか、とアイリスは考えていた。
「お前さ、魔女って知ってる?」
ノアの不可思議な問を理解するのに、アイリスは随分時間が掛かった。
「…………は?」
「魔女だよ、マジョ。名前くらい知ってんだろ?」
――…魔女。
お伽噺に出てくる、悪役の女性のことだろう。
でも何故、今そんな事を話すのか?
「俺の惚れた女は、魔女だ」
「…ねぇ、真面目に聞いてるんだけど?」
「俺も真面目に答えてるさ」
魔女…それはつまり、いわゆる魔性の女という意味だろうか。
「まぁ、実際会った事ないならピンと来ないだろうな。魔女は稀少種だし」
「えっと…騙されたの?」
「…お前、また偉い勘違いしてるだろ」
ノアは仕方なしに溜め息をつくと、おもむろに右の掌を差し出した。
アイリスは首を傾げながら、彼の手に視線を集中させる。
「あんまり直視するな。眼球が焼けるぞ」
その瞬間、真っ赤な焔が勢い良く発生し、ノアの掌を纏った。
「ひっ!?」
突然の出来事に、アイリスは咄嗟に身を引いてノアから離れた。
直径20センチ程の焔は、彼の掌でまるで生きているかのように動いている。
「な、何…これ…っ」
「前にも一回見ただろ」
アイリスは、確かに心当たりがあった。
治りかけたこの両手の火傷は、以前ノアに触れた時に負ったもの。
セルディス派に攫われた時に、ノアの体そのものが発熱していたのだ。
「“これ”が魔女の能力の一部だ。自然界の力を借りて自分の身体を媒介とし、自由自在に扱える」
「な、何でそんな力をあんたが使えるわけ…?」
「俺の母親に魔女の血が混じってた。それを受け継いだってわけだ」
ノアは片手で煙草をくわえると、自ら出した火をライター代わりに使い、煙を吸った。
ふう、と大きく吐き出された煙がアイリスの目に染みる。
それを知ってか知らずか、ノアは椅子から立ち上がり静かに窓を開けた。
「魔女ってのは、世界に数えられるくらいしかいない。けど特別でも何でもない。ただ力を持ってるだけで、見た目も中身も普通の女だ。見分けなんて付かねぇから、大概の魔女は素性を隠して暮らしてる」
「…何で?そんな凄い力持ってるなら、逆に打ち明けたくならない?」
アイリスの素朴な疑問に、ノアは再び溜め息を漏らした。
何故だろう、馬鹿にされてる気がする。
「お前だったら、打ち明けてどうする?」
「えっと…例えば今のあんたみたいに火を簡単に起こせるなら、災害時とかは色々役に立ちそうだし」
「…お前さっき、俺の火ィ見てびびってただろうが。そんな相手に助け求めんのか」
「そりゃいきなりあんな力見せられたら驚くけど、今は関心してるから…」
アイリスの言葉に、ノアは大きく目を見張った。
驚いたような動揺の表情の後、ふと柔らかく瞳を閉じる。
「…世界中が皆、お前みたいにお人好しだらけなら良かったのにな」
「それどーゆー意味よ」
「とにかく、そんな奴ばかりじゃないってことだ」
ノアは煙草の先端を灰皿に押し付け、窓を閉めた。
仄かな月明かりが、彼の横顔を哀しげに照らす。
アイリスは、不思議と胸を締め付けられた。
「ま、魔女については何となく分かったわ。それで…あんたの好きな魔女さんは、どんな人なの?美人?」
そもそもの本題を話し出したアイリスは、努めて明るく振る舞った。
そうやって軽いノリで聞いた方が、ノアも深刻にならずに済むと思ったからだ。
すると、ようやくノアは振り返る。
「ああ…綺麗な女だ。滅多に笑わないけどな」
笑い方を識らない、と彼女は嘆いた。
笑わせてやる、と俺は約束した。
けれど結局俺も、彼女を笑わせる方法を識らなかった。
彼女を傷付けて、泣かせてしまった。
『きらいよ』
泣きながら、訴えた。
自分の惨めさを、皮肉めいた言葉で罵って。
『人間なんか、だいきらいよ』
沢山のものを奪われて。
全てを曝されて。
それでも生きなければならない彼女は、この世の全てを憎んでいた。
けれど彼女が一番嫌いなのは――…。
『俺は、好きだ』
結局、彼女は愛されたかったのだ。
自分以外の誰かに。
大嫌いな人間に――…。
「…ノア?」
名を呼ばれ、ハッと我に返った。
すると蝋燭の火が大きく揺れ、室内に影を作る。
長い沈黙の間、アイリスはノアの言葉の先を待っていた。
けれど彼は、一向に続きを話そうとしない。
…彼女の人柄を話そうとすればする程、思い出に囚われてしまう。
そうなのだと、アイリスは悟っていた。
――それだけ大切なんだね。
その女(ひと)の事が…。
月が、妖艶に浮かぶ夜。
ジルクスは静かな混沌に包まれている事を、アイリスは知らない。
けれど、人の心に敏感な彼女には分かっていた。
目の前の青年が、誰かを想って胸を傷めている事を。
またその人は、手の届かない人なのだと。
逢いたくとも、逢えない人。
アイリスにとって、レックスがそうであるように。
*・*・*・*
「だから言ったんだョ。あの女は油断ならないってネ」
下卑た笑いと共に吐き捨てられた言葉は、聞きようによっては皮肉にしか聞こえない。
けれど言われた当人はさして気にする素振りも見せず、ただ黙々と資料を読み進めていた。
様々な薬品の匂いが入り乱れる、薄暗い部屋。
清潔さの象徴である白い壁と、それに準ずる白衣を身に纏った男は、眉間に人差し指を宛がい眼鏡のレンズを持ち上げた。
「ま、でもこれで流石の総帥も分かったダロ?これ以上の検査と実験は時間のムダ。様子見の余地もナシ。不要なゴミはさっさと処分した方が賢明だと思うケド?」
「…捨て置くかどうかは、僕が決める事だ」
「ワァオ。何それ。総帥もたまに面白いコト言うネ」
クスクスと見下したように嘲笑されても、男は動じたりしない。
それどころか、口元に笑みさえ浮かべているのだ。
「ゲルナ。祭りの準備は順調かい?」
「祭り?…ああ、あの茶番ね。一応手筈は整ってるョ」
「そうか、なら良い。引き続き頼むよ」
そう言って、男は資料を纏め終えると席を立った。
だが部屋を出ようとするその背中に向かって、最後の皮肉が投げ掛けられる。
「総〜帥。今のオレの話、ちゃんと聞いてた?」
「勿論だ。これ以上調べても有益な情報が掴めないのは、重々承知しているよ」
「…でも、またあの女の所に行く気ダロ?あんた相当嫌われてるのに、気付いてないの?」
「残念ながら、そうみたいだね」
でも、と続けて男は振り返った。
知的で紳士な佇まいだが、眼鏡の奥の眼は野心を抱く悪魔のように冷徹だ。
「棄てないよ、ゲルナ。僕は彼女を棄てられない。もし結果が出せるなら願ってもない事だが、それはあくまで可能性の一つだ。有益だとか無益だとか、僕にはまるで興味がない。彼女は此処にいる。それだけで良いんだ。僕にとっては充分すぎる結果だよ。例え彼女が僕を嫌い、憎んでいても、そんな事はどうだって良いんだ」
この男は聡明だ。
世界に数人といない、逸材とも呼べる人物。
だからこそゲルナは確信していた。
この男の下にいれば、きっと全てが上手くいく。
地位も名声も、全て思うがままなのだ。
この巨大都市と強大な軍隊こそが、全てを物語っている。
――…ジルクス。
恐らく今の世界で、その名を知らぬものはいない。
誇り高きこの場所に君臨する我らは、言わば世界の管理者だ。
我ら無くして、世界は成立し得ない。
世界は我らの為に創られたのだ。
「そうかい。それならもう何も言わないョ。貴方の御心のままに」
物事は全て順調だ。
そう、この男さえいれば何の心配もいらない。
この男が“あれ”を必要だと言うのなら、我らは従わなければ。
この男が、そう言うのなら。
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