Re1:The first sign
D
都市ジルクスの南に位置する駅前広場は、実に多くの交通機関が入り乱れていた。
都市をいわゆる“輪”のように一周する大型鉄道機関モノレイル、矢継ぎ早に停留していく市内循環バス、個人営業のタクシーが数十台。
更に広場のシンボルとして聳える大時計は、人々の待ち合わせ場所として活用されていた。
迷路のように入り組んだロータリーに加え、行き交う大勢の人々。
当然、周囲は人々の雑音と乗り物から吐き出される排気ガスで充満していた。
この場所で、アイリスは一人ぽつんと立ち尽くしていた。
彼女の目前には、明々と光る電光掲示板。
ジルクスを出国する列車の時刻表を見上げながら、がっくりと肩を落とした。
「……はぁ…」
吐き出された溜息は、誰に聞かれる事もなく消えていく。
此処まで足を運んでいた事を、彼女は心の底から後悔していた。
何の因果かは知らないが、ノアの機嫌を損ねてしまったアイリスは、彼と言い争い、彼に殴られ、挙げ句の果てには啖呵(たんか)をきってクロウディ派のアジトを飛び出した。
行く宛もなく途方に暮れ、この際故郷に帰ってしまおうかと考えながら駅まで来たものの。
アイリスは、大きな失態を犯してしまったのだ。
「…やっばい、荷物…アジトに置いてきちゃったよ」
地図も財布も、此処に在らず。
何処へ向かう電車に乗れば良いのかも分からず、切符を買う賃金もない。
こんな都会の見知らぬ地で、無一文で、どうやってやり過ごせば良いのか。
仕方なく、アイリスはのろのろと鈍い動作で手頃なベンチに腰掛けた。
深い溜息をついて、ぼうっと周囲を眺めてみる。
なんて、人の数だろう。
忙しなく行き交う人々は、きっとお互いの顔も名前も知らない。
彼らはアイリスを知らないし、アイリスもまた、彼らを知らない。
同じ都市に住んでいるというのに、素性も知らぬ人と隣り合わせに生きている。
故郷の村では、まず有り得ない光景だ。
「…あいつ、よく一人でこんな所に来れたなぁ…」
ジルクス軍に志願した当時、レックスはまだ10歳になったばかりだった。
あの世間知らずでお人好しの少年が、こんな都会に一人でやって来たのかと思うと、アイリスは不安でならなかった。
多分、いや絶対、泣いて帰りたいと願っていただろう。
「……レックス」
――…あ、ダメだ。
あいつの事考えると、泣きそうになる。
不安で胸が張り裂けそうになり、名も知らぬ人々が行き交う場所で、アイリスは自分の膝を抱えた。
背を丸くし、視界を閉ざすことで寂しさを堪えるしかなかった。
目を閉じれば、闇。
視界を閉ざせば、此処が何処かも分からなくなる。
いつか、自分が誰なのかさえ――…
「アリィ」
――その時。
微かに耳に響いたのは、求めて止まなかった少年の声だった。
「え…?」
アイリスはゆっくりと顔を上げ、恐る恐る瞼を上げた。
人々が行き交う、忙しない朝の駅。
アイリスは、その中に立ち尽くす“灰色”の姿をぼんやりと見た。
それはこの世のものとは思えないほど綺麗で、透き通った色。
雪の白を哀しく汚したような、儚い色だった。
「―――……」
視線が交わったその瞬間、アイリスの時間はピタリと止まった。
周囲の人々の声や、電車の発車ベル、機械的なアナウンス。
全ての雑音が消え、人々は彫像と化し、その空間は二人だけのものとなったのだ。
「泣かないで」
そう言った灰色の少年は、悲哀の表情でこちらを見つめていた。
それはまるで、女の子のように愛らしい顔立ち。
真ん丸な大きい瞳。
あどけない表情。
――…遠い昔の記憶に焼き付いた、灰被り姫。
「な…んで…」
10年前に別れた時の姿のまま、彼は其処に立っていた。
困惑するアイリスの前へ、少年は歩み寄ってくる。
「どうして、ここに来たの?」
間違いない。
この少年は、紛れもなく――…
「レッ…」
「ねぇ、どうして」
名を呼ぶことすら許さず、尚も問の答を聞きたがる少年に、アイリスは戸惑いながらも考えを巡らせた。
「…あ、あたしは…あんたに会いに…っ」
「会いたくなかったよ」
遂に少年は、アイリスの目の前に立った。
手を伸ばせば、簡単に触れられる距離。
――何て、懐かしい。
あたしは君を知ってる。
間違いなく、あたしが探している“あいつ”だ。
それなのに。
目の前の少年は、
あたしを拒絶したのだ。
「僕は会いたくなかった」
「…な、何で…っ」
「君を巻き込みたくなかった」
彼は、アイリスの頬に触れた。
寄せられた掌はひやりとして、驚くほど冷たい。
その哀しい温度に引き寄せられ、アイリスは無性に泣きたくなった。
そして“彼”は、
たった一言を告げる。
「…帰るんだ、アリィ。君は此処にいちゃいけない」
その言葉を、アイリスは何処か他人事のように聞いていた。
『お客様に、お知らせ致します――…』
駅構内に流れたアナウンスの声に、アイリスは我に返った。
周囲に拡がるのは、先程と変わらぬ忙しない朝の風景。
行き交う人々の中で、アイリスは茫然自失だった。
「…レックス…?」
自分にすら聞こえるか分からない程か細い声で、アイリスはその名を呼んだ。
けれど、少年の姿は何処にも見当たらない。
影も形も、ない。
「…な、何だったの…?」
夢、だったのだろうか。
いや、そんな筈はない。
確かに彼は少年の姿で此処にいた。
冷たく小さな手で、この頬を撫でていた。
レックスは、アイリスと同い年。
二人は今年で20歳となる筈だ。
けれど先程の少年は村を出た時のまま、10歳の少年の姿をしていた。
確かに、アイツだった。
「やだな、もー…。疲れてんのかな」
訳が分からず、アイリスは頭を抱え、再びベンチに腰掛けた。
――…嫌な予感がする。
早く、彼を捜し出さなければと焦燥感に追い立てられた。
「もしもーし?」
その時だった。
突然聞こえた軽そうな声に反応し、アイリスは俯いていた顔を上げる。
「あ、やっぱり。キミ今朝ノアん所にいたコだよね?」
思わずゲッ、と嫌そうな声を出してしまいそうになり、アイリスは慌てて言葉を飲み込んだ。
それは、つい先程出会ったばかりの人物。
ノアと共に寝ていた、あの男だった。
「こんなトコで何してんの?いくら昼間でも、一人でフラフラしてたら怖い人に攫われちゃうよ〜」
「か、関係ないでしょ」
アイリスは、どうもこういう人種は苦手だ。
ふわふわと、ポップコーンのように軽い言動に顔をしかめながら、早くどこかへ行けと念じる。
だが在ろう事か、男はアイリスの隣へ腰を降ろし、へらっと笑った。
至極嫌そうな素振りで、アイリスはぐっと顔を背ける。
「俺、セスっての。キミはアイリスちゃんでしょ?」
「な、何で知って…っ」
この男に名乗った覚えがないアイリスは、驚きの余り思わず振り返ってしまった。
「だーって、昨夜あんなにノアが情報欲しがった相手だし。忘れらんないっしょ」
「情報…?」
「そ、俺こー見えてもジルクスじゃあ結構名が通った情報屋さんなの」
そう言ってセスと名乗った男はニコニコと笑みを浮かべるが、どうにも胡散臭くて仕方ない。
第一、情報屋という職業をアイリスは知らない。
名前の通り、情報の売買者だと察しは付くが、そんなもの何の役に立つというのか。
アイリスは徐々に近寄ってくるセスから遠ざかり、一定の距離を保ちながら慎重に聞き返した。
「ノアが、あたしの情報を…何で?」
「知らない。初めてだよ、ノアが“仕事”以外の情報を買いたがったの。亜麻色の髪した田舎娘の居所を教えろ、だなんてねー」
田舎娘は余計だ、とアイリスは内心で怒りを覚えた。
――…ん、昨夜…?
それは確か、アイリスがセルディス派に捕まった時だ。
「…そっか。あたしがセルディスの館にいるって情報、アンタがノアに教えたんだね」
「そーそ。キミのお陰で、ノアと楽しい夜を過ごせたよ」
その爆弾発言に、アイリスは動揺を隠せなかった。
「は!?な、によ…それ」
セスは無駄に長い脚を組んで、こちらをニヤニヤと厭らしい視線で見つめている。
まるでこの状況を面白がっているような、そんな表情だ。
「ノアは俺のお得意様だけど、些細な情報じゃあ金貰って終わり。でもそれじゃ…ツマンナイだろ?」
何言ってんの、コイツ。
「キミの情報やる代わりに一晩相手してって言ったら、二つ返事でオッケーしてくれたんだよ」
意味が分からない。
じゃあ、何?
ノアが身体売ったのは…あたしの為ってこと?
「あの気難しいノアからそこまで想われるなんて…キミって、何者?」
「想われて…なんか」
訳が分からない。
だって、ノアとあたしはまだ出会って幾日も経っていないのだから。
あたしの為にそんな事をする義理はない筈だ。
でも、もし。
この男の話が本当なら――…。
「あ、ほら。お迎えが来たみたいだよ」
全てを見透したかのようなセスの声に考えを遮断されたアイリスは、反射的に顔を上げた。
雑踏に包まれる駅前広場。
その向こうに、見知った姿を見つけた。
「…ルツキ、さん」
彼はアイリス達の姿を見つけると短く溜息をつき、人混みを掻き分けてこちらへ歩み寄ってくる。
――…やばい。ルツキを纏うオーラがこの上なく恐い。
条件反射の如く、アイリスは逃げようとベンチから腰を上げた。
だが、即座に腕を掴まれる。
「今、逃げたら余計にヤバイんじゃないの〜?」
「は、離せっ!!」
やーだよ、と軽快な口調でセスはアイリスを引き留める。
そうしている間に、お怒りのバーテン様が目の前までやって来た。
「…こんな人の多い面倒な場所で、こんな面倒な変態と何をしてるんです?」
面倒な変態とは、間違いなくこの情報屋セスの事だ。
「…ノアの次はアイリスさんに手を出すつもりですか?というか、ちゃんと女性にも興味あったのですね。初耳です」
「心外だなぁ。俺は人類皆愛してるぜ?特にノアは綺麗だからお気に入りなだけだって。あ、でもルツキちゃんも中々美人だと思うよ?」
「その膿だらけの脳に風穴を空けられたくなければ、今すぐ消えて頂けますか」
明らかにキレているルツキは懐から小型の拳銃を取り出し、セスに向ける。
――…恐い。こんな間近で殺人現場なんか見たくない。
アイリスは顔を真っ青にして、硬直していた。
「はは、分かったよ。今日は偶然見掛けただけだし。ナンパはまた今度にしとく」
「5、4、3…」
「じゃ…じゃあな、アイリスちゃんっ」
今度こそ本当に射抜かれそうになったセスは、そそくさと退散した。
標的の姿が完全に見えなくなると、ルツキは漸く拳銃を懐に忍ばせた。
「…貴女は本当に面倒ばかり掛けさせて、この私がどれだけ探させられたと思いますか」
武器はないものの、彼の真っ黒なオーラは全く消えない。
それは、間違いなく自分の所為だと確信したアイリスはびくびくと震えるしかなかった。
「で、何か言う事は?」
「…ごめんなさい…」
心底申し訳なさそうに、深々とアイリスは頭を下げた。
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