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Re1:The first sign
H



『――…ス、…きて…、……リス』

 ――…うるさいなぁ。
 昨日はよく眠れなかったんだから。
 あとちょっとだけ…。

『いつまで寝てるのッ!起きなさいアリィ!!もうとっくに母様たち帰ってきてるわよッ!!』

 ――…えっ!!?

『か、かあさまっ!!?』

 どうして早く起こしてくれないのっ!?
 姉様のバカバカバカっ!!
 こんなコト、口に出して言えないけどさっ!!
 言ったら何されるか分かんないしッ!!

『もぉ、あたし先に行くからねっ』

『わぁん!まってぇ!!』

 見慣れた部屋。
 ここは…そう、あたしの部屋だ。
 今日はお昼過ぎに母様が家に帰ってくる日だから、ずーっと玄関先で待ってようって決めてたのに。
 雪の影響で到着が遅れるって、連絡が入ったんだ。
 そしたら、ついウトウトしちゃって…。
 気付いたら外は真っ暗。
 多分、使用人の誰かが親切であたしを部屋まで運んでくれたんだろうけど…。

 ――当時のあたしは、確か5歳。
 その親切を理解するには、まだ幼かった。

『もぉ!!よけーなコトばっかりしてッ!!』

 風邪を引かないように、という使用人の気遣いに腹を立てながら、あたしは部屋を飛び出した。
 こういう急いでる時、家が無駄に広いと不便だ。
 長い廊下をバタバタ走り、階段を一気に二段飛ばしで駆け降りた。

 ひんやりとした外気が肌を刺激する。
 開いた玄関の前に、ずっと会いたかった人の姿を見つけた。

『かあさまっ!!』

 長いサラサラの髪。
 澄んだ瑠璃色の瞳。
 いつもと変わらずお美しい母様は、優しい微笑みを向けてくれた。

『アリィ』

 母様は、先に出迎えた姉様を抱き締めた後、走ってきたあたしをふんわりと抱き留めてくれた。
 あたしは、母様の暖かい腕の中が大好き。
 あたしは、母様が世界で一番好き。

『おかえりなさい、かあさまっ!!』

『ただいま、可愛いアリィ。いい子にしてた?』

 ああ、母様。
 やっとあたしの所に帰ってきてくれたのね。
 あまりにも母様に会えた事が嬉しくて、姉様が口を開くまでもう一人の存在に気付かなかった。

『あれ、そういえば父様は?』

『お父様は、到着してすぐに研究室に入られたわ。早速手に入った新薬の成分を分析するんですって』

『あー…父様も一緒に行ってたんだっけ。すっかり忘れてた』

『もう、ミモザにアイリス。そんな事を言ったら、お父様も悲しむわ』

『いつもの事じゃない』

 ケラケラと笑う姉様に、母様はまた、もう、と言って微笑んだ。

 母様は病気だった。
 生まれつき心臓が人より小さくて、生命維持活動が困難とされる病に冒されているのだ。
 この一ヶ月間、父様は母様を連れて南にある大きな都市へ行っていた。
 そこに腕利きの薬剤師がいると聞いて、母様の身体に合った薬を手に入れてきたのだ。
 父様も腕は悪くないけど、どちらかと言えば内科より外科の方が得意だ。
 きっと都会の薬剤師に刺激されて、いつも以上に研究心が湧いたのだろう。

 ともあれ、良かった。
 また母様と暮らせる。

 そう安堵していたその時、母様の背後で何かが蠢いた。

『――…ひゃあっ!!』

 あたしは思わず、変な悲鳴を上げてしまった。
 雪の白に泥が混じったような色の“それ”は、確かに動いている。
 暗くなった外に佇む謎の物体は、小刻みに震えていた。

『あら、そこにいたの。寒かったでしょう。さあ入って』

 母様はその不気味なものに近付いて、家の中へ促した。
 明るい電灯の下で改めてそれを目にしたあたしは、絶句した。

『――…』

 ――…子供。それも多分、少年だろう。
 頭の天辺から爪先まで、まるで暖炉の灰に塗れたように小汚くて。
 それに臭いも、かなりきつい。
 何これ?どこの子?

『母様…、誰それ?』

 潔癖症の姉様は、あたし以上にこの子の汚さに過剰反応していた。
 あたしだって、遊んで全身を泥だらけにする事くらいある。
 でもこれは何ていうか、そういう次元じゃない。

 “不潔”
 その言葉しか見当たらなかった。

『紹介するわね、皆』

 そう言うと母様は、雪のように白く綺麗な手で、あからさまに不衛生な少年の髪を撫でて見せた。
 あたしも姉様も、使用人達も。
 その光景に、ただ言葉を失っていた。


『彼は、レックス。私たちの新しい家族よ。皆、仲良くしてあげてね』

 …家族?

『さあ、それじゃまずはレックスをお風呂に入れてあげないとね』

 唖然とするあたし達を余所に、ボロボロの雑巾みたいな布切れを纏ったレックスを、母様は洗面所に連れていこうとする。
 だけど、すかさず使用人が声を上げた。

『お…奥様。彼の世話は私どもが致しますから…』

『いいのよ、マリー。私も長旅で疲れたし、一緒に入るから』

 その言葉を聞いた瞬間、あたしは頭に血が上った。

『かあさまっ!!』

『どうしたの、アリィ?』

 あたしがいきなり大きな声を出したせいか、レックスはすかさず母様の後ろに隠れた。

 …何よ、その顔。
 さっきから下向いてビクビクして!!

『ズルイッ!!今日はあたしが、かあさまと一緒におフロ入るんだもん!!』

『あら、じゃあアリィも一緒に入る?』

 一緒に…入る?
 あたしと母様と、その見るからにきったない奴が?
 絶っ対イヤッッ!!

 あたしは言葉に詰まり、声を出せなかった。
 すると母様は、いつもの柔らかい笑顔で『じゃあ明日はアリィと一緒ね』と告げ、行ってしまった。

『っ…かあさま…』

 何よ…何なのそいつ。
 家族ってどういう事?
 母様、あたしよりもそいつの事が大切なの?
 あたしは一ヶ月も母様に会えなくて、寂しくて仕方なかったのに!!

 その時、母様に手を引かれていた少年が、こちらを振り返った。
 あたしと目が合った瞬間、しまった、という感じで慌てて顔を逸らされた。
 その妙にたどたどしい態度が、更にムカついた。

『アリィ』

『なにっ!!』

 苛々が治まらないあたしを一瞥して、姉様は小さく溜息をついた。

『あんたさぁ、いい加減に親離れしたら?ただでさえ母様は身体が弱いんだから、馬鹿元気なあんたに一日中付き合ってられないんだからね』

『うっさいなぁ!ねえさまこそ、せーかくわるくてもゆるしてくれるカレシみつければっ』

『…あんたみたいなガキに言われたくないんだけど』

『あたし、オトコならいっぱいいるもんっ』

 姉様とは、いつも喧嘩してばっかり。
 不器用で大雑把なあたしと違って、姉様はいちいち細かくて神経質。
 そんなだからオトコにもてないんだ〜って言うのが、あたしの口癖だった。


*・*・*・*



『マリー!かあさまは?』

 母様がお風呂から出た後を見計らって、あたしは急いで使用人のマリーに尋ねた。

『あら、アイリスお嬢様。奥様はもうお休みになられましたよ』

『えぇ〜っ!!?』

 まさかの入れ違い!?
 今日は絶対、母様と一緒に寝るって決めてたのにィ!!

『う〜…、あたらしい本、よんでもらいたかった…』

『奥様は…やはりお疲れのご様子でしたから、今日はゆっくり休ませて差し上げましょう。ご本は後で私が読んで差し上げますから、ね?』

 そう言って、マリーはそばかす顔をふんわりと緩ませてニコリと笑った。
 彼女は、あたしが生まれて直ぐに雇われたらしい。
 だいぶ歳が離れてるけど、あたしにとっては姉様よりお姉ちゃん的な存在だ。

『うん…』

 仕方ないから、あたしは姉様とお風呂に入った。
 姉様も今だに妹とお風呂に入る事がイヤみたい。
 グチグチ言いながらも、あたしのくせっ毛を傷まないように丁寧に洗ってくれた。

 そして、お風呂上がりにはミルクが鉄則だ。
 姉様は胸が大きくなるように、あたしは背が大きくなるように。
 男友達とばっかりつるんでるから、オンナだからってなめられないように、とにかく早く大きくなりたかった。
 姉様の努力は…実ってる気配がないけど。
 あたしは日々、着実に成長してると思うんだ!

 ミルクの入ったコップを持って、自室へ向かう。
 途中、父様と母様の寝室の前に差し掛かった。
 部屋の灯りが消えてる。
 父様は今夜、研究室に籠もってるだろうから、母様は一人だ。

 寂しく、ないかな。
 やっぱりあたし、母様と一緒に寝たいな。

 恐る恐る、寝室の扉に手を掛けようとした。



『――…あの』


 びっくりした。
 いきなり背後から声を掛けられたから、思わずミルクを落としそうになった。
 慌てて振り返ると、そこにいたのは――…

『…っ』

 灰色。雪の白がくすんだような寒々しい色。
 そこに立っていたレックスを見た瞬間、鳥肌が立った。

 お風呂で綺麗に洗い流された彼の肌は、陶器のように儚く、白い。
 髪は混じり気のない灰色で、長い睫毛に縁取られた大きな瞳も、灰色だ。

 あたしは、絵本で読んだ“灰被り姫”を思い出した。
 お姫様みたいに、綺麗な男の子だった。

『あの…』

 灰被り姫は、あたしを見ては目を反らし、何かを言いたそうにモジモジとしていた。
 焦れったい。
 あたしの大ッ嫌いなタイプの人間だ。

『なに?』

 あたしはわざと、刺々しく言ってやった。
 想像通り、灰被り姫はびくりと肩を震わせる。

『ねえ、なんかよう?』

『あ、あの…えっと』

 もう、苛々するなぁ。
 トイレの場所でも聞きたいのか。
 そんなの使用人の誰かに頼ればいい。
 そう思ったあたしは、自室へ行こうと踵を返した。

『っ…あの、ぼくレックス=ワーネルツっていいますっ。よ…よろしく…』

 搾り出すような言葉が、背後から聞こえた。

『お、奥様が…アイリスは、同い年だから…、って。だから、あ…あの…』

『それが、なに?』

 次の瞬間。

――バシャッ!!

 レックスにとっては、何が起こったか分からないだろう。
 ポタポタと、乳白色の雫が頭から零れる。
 レックスは、生暖かい液体を頭から浴びせられた。
 アイリスの持っていた、ミルクだ。

『きやすく、よびすてにしないで』

『え…?』

『いみわかんない。あたし、あんたのコト家族だなんておもわない』

 ――…レックス。
 あたしから母様を奪う、灰被り姫。

『あたし、みとめないから』

 あんたを家族だなんて、認めない。



TO BE CONTINUED...

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