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Re1:The first sign
C



 ――…ああ、まただ。

 身体が鉛のように重くなり、指先を動かす事すら億劫でならない。
 頭の奥から湧き上がる鈍い痛みのせいか、酷い耳鳴りがする。
 まるで身体の芯まで凍り付いたように、寒くて堪らない。
 …震えが、止まらない。

「気分が、優れないようだね」

 いつ聞いても、あの男の声は不快だ。
 現に、ほら。また寒気が増したみたいだ。

「そんな顔をしないでくれ、美人が台無しだよ?」

 私は今、どんな表情をしているのだろう。
 きっと苦痛と絶望に歪んでいて、さぞかし醜いのでしょうね。
 でもそれは、全身を襲うこの気だるさのせいじゃない。
 眼鏡のレンズ越しに感じるあの男の不快な眼差しと、総毛立つほどに耳障りな声のせいだ。

「辛いのかい?もしどうしても耐えられないようなら、鎮静剤を――…」
「…平、気よ…」

 ああ、なんて情けない声。

「そんなものは、効かない…。これ以上、…何をしても…、無意味だって…わからない、の…?」

「心外な言葉だね。ボクのしている事が無意味だとでも言うのか?」

 頷く気力さえ、ない。
 まるで人形のように動かない私の身体は、あの男の前で無防備に横たわっている。
 呼吸をする事だけで、今の私には精一杯だ。

「残念。どうやらご機嫌斜めみたいだね」

「…もう、いいでしょう。出て行って…」

「そうするよ、キミに嫌われる事は極力したくない」

 白々しい言葉と、人を不愉快にさせる笑み。
 言ってやりたい。大声で、叫んでやりたい。

 ――私はお前など大嫌いだ。
 今すぐこの手で殺してやりたいくらい、憎くて堪らない、と。

 けれど、私にはそれが出来ない。
 反抗的な態度も、汚い暴言も、蔑む視線も、あの男を悦ばせる要因にしかならないからだ。

 私の行動、言動、仕種や表情。
 その全てをあの男は知りたがっている。
 貧欲に求めているのだ。
 それを悟ってしまった以上、私にはどうする事も出来ない。

 ――ならばいっそ、何もするべきではないのだ。

「少し眠りなさい。また落ち着いた頃に来るよ」

 汚らしい穢れた手で私の髪を慈しむように撫でながらそう囁くと、あの男は静かにその場を離れた。
 小奇麗で耳障りな靴の音が遠ざかり、機械的に扉が閉まる音がする。
 どうやら、やっと一人になれたようだ。

 私が“ここ”に容れられて、どれくらい経ったのだろう。
 もう時間の感覚が分からない。
 太陽も、月も、星も、風も、何も無いこの空間では、時の流れなど知ることも出来ない。

 気が遠くなるような長い年月の中で、私が見出したささやかな抵抗。
 それは、――…従うこと。
 あの男の前では、従順で、優秀で、賢く、模範的に演じればいい。
 泣き言は一切言わない。
 反抗も絶対にしない。
 そうしていれば、少なくとも今は、あの男にとって面白くない状況が続く筈。
 だって私は“何の結果も出していない”のだから。

 悔しいでしょう?
 何もかもが自分の思い通りにならなくて、憤(いきどお)るでしょう?
 そのうち、あの男は私に飽きて処分するわ。
 早く、そうして欲しい。
 一分でも一秒でも早く。
 私をばらばらに壊して、処分して、廃棄して。

 それが私の“ここ”で見出だした最後の希望。
 私は、死ぬために生きているのだ。

「――…」

 ふと、全身を包む温かい息吹を感じた。
 あの男から私を護るように取り囲んでくれる、草木の温もりだ。

 ありがとう、優しいね。
 もう私を愛してくれるのは、お前たちだけだ。
 きっと、私が最後に愛する存在もお前たちだろう。

 こんな私でも、かつて人間を愛した事があった。
 幸運にも、その人間も私を愛してくれた。
 ――…幸せだった。
 彼との出会いは、私にとっての奇跡だった。
 あの時の思い出と、心優しいお前たちがいてくれれば、何も怖くないよ。

 ふと、視線を上にずらした。
 お前たちの美しい葉の隙間から、こちらを見つめる視線があった。
 ――…監視用に設置された機械。
 あのレンズを通して、あの男は今も私を見ている。
 お前たちと嘆き戯れ、かつての幸せだった記憶を懐かしむ私を見て、薄ら笑っているのだろう。

 ――…下賤な男よ。
 そんなに見たいのなら、好きなだけ見ればいい。
 所詮、貴様如きの曇った眼では、この強固な壁に覆われた心を見透かす事など出来はしないのだから。
 せいぜい取り繕った私の姿を、気の済むまで観察するがいい。

 絶えずこちらに視線を向ける穢れた眼にわざと見えるように、そっと嘲笑してみせた。



*・*・*・*



「おーい、ネェちゃん!次こっちにビアピッチャー頼むわぁ!!」

「はぁぁぁいぃぃ〜…」

 右手に巨大なフライの盛り合わせ。左手にジョッキ四つ。
 クロウディ派のアジトであるバー『Poor Fang』の新人ウェイトレスは目まぐるしく店内を走り回っていた。
 何しろはアイリスは、飲食店はおろか働いた経験すらない。
 接客業の大変さを、身を持って知ったのだった。

 現在時刻は18時過ぎ。
 この辺りは工業地区に面した住宅街のため、仕事終わりの常連客がこぞって集まる時間帯だ。
 こうなると閉店間際の24時まで休めないと、バー経営担当である先輩方から聞いていたが、まさかここまで忙しいとは。
 一応休憩は順番に回ってくる筈だから、それまでの辛抱だ、とアイリスは気合いで乗り切ろうと必死だった。

 だが、如何せん上手くいかない事も多い。
 不注意で皿やグラスを割る事まではまだ可愛いと思えるが、運んでいた料理や酒を客に引っ掛けてしまい、激怒した客に取りあえず謝罪はするものの、それを弱味に身体を触ってくる痴漢まがいの輩を問答無用で投げ飛ばしたりなど、とにかく落ち着きがない。
 ルツキからこっぴどくネチネチと嫌味めいた説教をくらい、アイリスは改めて自分の短所を思い知らされた。

 いつだったか子供の頃。 アンナ、と名付けて大切に可愛がっていた人形の腕が取れてしまうという大事件があった。
 何とか自分で直そうと奮闘したが、何度も針に指を刺されて指がボロボロになってしまった。
 結局、人形の腕を本来なら有り得ない可笑しな角度で縫い付けて、大泣きしてしまった。
 そんな私を見て、四つ年の離れた姉が呆れたように溜息をついた。

『もぉ…、あんたってホントに不器用だねぇ』

 アイリスは、決して短気という訳ではない。
 ただ細かい規律やルールを守る事が苦手なのだ。
 どうしてこんな事をしなければならないのかと一度疑問に思ってしまうと、それを律儀に守って行動する事に抵抗を感じてしまう。
 針と糸を通す作業すら出来なくて、裁縫の存在意義を疑問に思い、苛立ってしまったのだ。
 けれどそんな風に苛立った時は、いつもアイツが駆け付けてくれた。

『貸して、アリィ。僕がアンナを直してあげるから』

 レックスはアイリスと違い、物事を何でも要領よくこなす器用さを兼ね備えていた。
 オトコのくせに、裁縫や料理、掃除洗濯などの家事全般を得意としていた。
 悔しくて、腹が立って、夜中にこっそり裁縫の練習をした。
 机の上に飾られている、レックスが綺麗に直してくれた人形の腕を目標に、精一杯の努力をした。
 でも傷は増える一方で、裁縫が大嫌いになって。
 そんなアイリスの指に絆創膏を貼りながら、レックスはやはり微笑んだ。

『駄目だよ、アリィ。縫物が嫌いなんて言ったら、アンナが悲しむよ。大丈夫、アリィならきっと僕より上手に出来るようになるから。だってアリィは女の子なんだもん』

 ――…レックス。
 あたし今、アンナの腕が取れた時みたいに挫けそうだよ。
 こんな時、あんたならきっとあたしの代わりにテキパキ働いてみせるんだろうね。
 それで、落ち込むあたしにこう言うに決まってる。

『大丈夫、最初から完璧に出来る人なんかいないんだだから。アリィなりに精一杯頑張れば、きっと皆も認めてくれるよ。さあ、あと少しで休憩の時間だからさ。もうちょっとだけ頑張ってみよう?』

 簡単に言ってくれるじゃない。
 いいわよ、やるわよ、やればいいんでしょ。
 あんたはそこで、あたしがバキバキ働く様を見てればいいのよっ!!



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