虚無杯満:3



「では、行ってくる」
「…どうか、ご無事で」
「姉上よ、案ずるな。私の帰る場所は姉上の元だ。必ず戻る」




数日前に子桓は父上の後ろに続いて官渡へと発った。私は武術を得ていないので戦へ着いて行くことはできない。人前……たとえ父様の前ですらあんな優しげな表情は見せないのに、私の前では素直な感情を見せてくれるから、少しだけ私は子桓にとっての大切な人になれているのではないかと嬉しく思う。だからどうした、と言うわけじゃないけど、私自身、身分のせいかあまり親しい人がいないから子桓の存在は私にとって、どんどん大きなものになりつつある。

此度の戦については、戦に出れないが代わりに内政に関わる私は軍議で詳細を知っていた。敵の総大将は袁紹。父上の最大の敵だとも聞いていた。魏軍が負けるとは思っていない、けれど、祈らずにはいられないのだ。どうか、生きて帰ってほしいと。

敵が袁紹というだけあって戦は長引いた。四六時中皆の無事を祈りながらも人数の少ない分、仕事が溜まるために私が代わりにこなさなければいけない。父上宛ての文などは私じゃなくても身内が一緒に目を通したり返事を書いてくれたりするものの、重要書類の大半が私のところへなだれ込んで来る。ある程度やっていると慣れ、はでてくるが、それでも疲れる。
それでも戦地へ赴く子桓たちに比べれば楽なものだと言い聞かせ、数ヶ月以上もこれを繰り返した。

戦は持久戦へもちこまれ、魏軍は兵糧が日に日に減っていき一時は撤退しようという案まで父上から言われたのだ、と荀?からの手紙で知った。でも、なんとか持ちこたえているらしい。


「…子桓……あいたい、よ…」


もう何日、何ヶ月と会っていない。待つだけの日々は何も出来ない自分に苛立ったりなど、精神的にも堪えた。ぎりぎりのところで体調を保ったりしなくては、魏の内政に影響がでる。自分が体調を崩してはいけない。…それすらもこの精神を蝕むひとつだが。
今までも子桓が総大将となって戦に出たこともあったけれど、こんなに長引くものは無くて、最大で一月くらいだろうか。だから、子桓のいない宮廷での毎日にどんどん色が消えて行くようだった。





そこから、またひとつき経ったある夜。よほど疲れが顔に出ていたのか、ここに残った曹植から「少しは休んでください!」と言われて一日休暇を(強制的に)もらった。
と言っても、ずっと働き詰めだったのでぽっかりとやることが消えると何をしていいのかわからない。とりあえず何も考えないように牀榻で横になったりと、とにかく体を休めることに専念した。夜、いい加減じれったくなり中庭へと出て夜空を見上げていた。


「この夜空の下で、皆戦っているのね…無事かな。…しか、ん、は」
「…この通り、私は無事だが」
「え、……し、子桓…なの?戻ってくるなんて聞いてない、のに」
「言ってないからな」


曹植が休めと言ったのはこのためなのかもしれない。何にしてもいきなりのことでどう対応していいのか、まったくわからない。軽い混乱状態っていうのかな。


「お帰りなさい、子桓。本当は私も戦うことができたらよかったのだけれど」
「いや、剣を持つのは私で十分だ。姉上が戦うなど不安で見ていられぬ。何より危険な目にだけはあってもらいたくない」
「………そんなこと、…」
「そのために私は戦うのだからな」
「そんなこと、……ぁ…」


恥ずかしくてつい、視線をそらしてしまう。でもまた子桓を見れば少し俯いてこぶしを握っているのがわかった。そっか、やっぱり何を言ってもこんな長い戦は初めてで辛かったんだ。私にはわからないけれど。おそるおそる子桓の背に腕を回して抱き寄せる。抵抗しない子桓は素直に私に寄りかかってくれる。頭を軽く撫でれば、私を包むように抱き寄せてくれる。今までの私の中の不安が嘘のように、浄化されていった。そして新たに、感じたことの無い幸福感と、どうにも表せない切なさが染み渡った。


「ただいま、篠乃」
「っ…お、かえり、しかん…」


なに、この、気持ち、は。






虚無の杯、満たしましょう:3

長い長い長い説明ばっかりでした´`
とりあえず、なぜ官渡の戦いなのかはこれからの話に関わるのです…。曹丕と官渡の戦いって言ってわかる方はわかるかもですね!
20080605








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