虚無杯満:9



どんなに知識を詰め込もうともやはり自分は、無知だ。



不幸中の幸いなのだろうか。
私室で執務を行っていた途中、嫌な予感がして篠乃の部屋に入ったら案の定そこはもぬけの殻であれだけやめろ、と釘を刺しておいたのにまた懲りずに張コウに手ほどきを受けているのだろう。が、鍛錬場にはおらず、それでは…となんとなく立ち寄った処置室に顔を出した瞬間、全身が凍ったかのような感覚に囚われた。倒れていた、……―――篠乃、が、背を大きく切り裂かれ、て。半分錯乱状態に陥ったようにも思える自分は思いつくがままに篠乃を抱え上げて典医の元へと走った。どうやって向かったのかは、もう記憶にすらない。私がこうして見つけることができたのは幸運だったのか。

そんなわけ、ないだろうが。

だが、典医の話では怪我の状態からして傷を負ってまだ半刻も経っていないらしい。傷は塞がるとのことだ。しかし、顔色が悪い。こんなとき自分は何をすればいいのか。考えてはみたものの思い浮かばないのだ。何せ、父もこんな状況でどうすればいいかなど教えてはくれなかったし、仲達も仲達で怪我人の手当てぐらいでその他に関しては何も言わなかった。


「なあ、こんな時私は何をすればいいのだ?」
「そうですね…。後は回復を待つだけで御座います。篠乃様のお傍にいてあげることが曹丕様のお役目かと」
「そうか。そうさせてもらおう」


典医が気を遣ったのか部屋から出て行った。そこでようやく一段落が着いたように思えて、ひとつ溜め息を吐いた。篠乃がここまで苦しそうにしている姿を見るのは実は初めてなのだ。傍に、いろ、なんて……それだけで彼女がよくなるわけが、無いだろうに…。

ふと、このままよくならずに寝たきりになどなったら、という嫌な思考が浮かびあがる。そう思った瞬間に自分の中の何かが物凄い勢いで乾いていくのを感じた。刃物で心臓を貫かれる、とかそういうのではなくて、別なものなのだが生きている感覚が無くなっていくのだ。強いて言えば生きるために必要な器に入った水が急激に干からびていくと言えばいいのか。どんな者でも抗うことができない、そんな感覚。…正直に言えば怖い。篠乃を失う恐怖と言うものが、これなのだろうか。


「…篠乃、篠乃っ、」
「…………ぅ、…し、か……ん…ぃあ」
「…っ!」


急に苦しそうに掠れた声を小さく発するようになった。それは良い兆候ではないだろう。脂汗のようなものが一気に噴き出ているのがわかる。そして、弱弱しく腕を天に伸ばすように、或いは私に向かって伸ばしている。何かを掴みたがっているのか。


「ほら、子桓様、お手を握ってあげては如何ですか!」
「ち、仲達!?何故お前が…」
「このまま放って置いては食事もろくに摂らないでしょうから様子を見に来ました」


邪魔だ、と言いたい所なのだが。この空間に仲達は不要なのだ。だが、それを口にする前に「邪魔者は退散しますよ」そう告げて去っていってくれた。空気の読める奴は助かる。仲達の気配が完全に消えた所で、先程やつが言っていた手を握る、をやってみようと思った。恐る恐る、か細い指先を包んでみた。

何かが、流れ込んできた。

枯れそうになっていた心の器の中に再び水が注がれているのだ。篠乃のまだ温かい手の体温によって満たされていくのだ。―まだ完全ではないが。知らぬ間に安堵の溜め息を吐いていた。ちらり、と彼女の顔色を伺うと汗は引いて大分楽に呼吸をしている。手を握っただけなのに。こうするだけでこんなに良くなるのか。
そういえば幼い頃に私が熱を出したことがあった。その時に、篠乃が手を握ってくれていたような気がした。すごく安心した、それだけははっきりと憶えている。篠乃も同じことを感じてくれているのだろうか。





虚無の杯、満たしましょう:9

久し振りの更新だと気付きました。そして話が、繋がって…な、い!(!)あぁいいなぁヒロインちゃん…手を握ってほしいです子桓さま!
20080916








あきゅろす。
無料HPエムペ!