虚無杯満:7



何故こんなことをするのか、わからない。
私に欲が無いからかもしれないけれど。




稽古を始めて二刻はもう経っただろうか。自分にこんな持久力があったなんて、と、意外に感心してはいたりする。でも少し視線を上げればまだまだ余裕そうな張コウと視線がぶつかる。やっぱり武将様はすごいと思う。私なんてまだまだだ。でも、初めのうちよりは大分力の加減とか、間合いの取り方とか、わかってきた気がする。


「…実用的とは言えませんが、かなり上達しましたね」
「っ…あっ、そうで、しょうか!……はあっ!」


必死で短剣で張コウに向けて攻撃をしていると、力の抜き方がよくわからなくなってしまって、受身の態勢を解いた張コウに向かって斬りかかってしまった。それで傷がつくような方ではないけれど、いつもの癖なのだろうか、張コウは雰囲気を一変し、私の力では受け流せないような力で攻撃をはじきかえした。

私は、どうしたらいいのかわからなくて、気付けば、怪我を負っていたらしい。

しばらく二人で状況が呑み込めず、立ち尽くしていた。でも、徐々に痛みが足元からじくじくとやってきて。思わず座り込んでしまった。周りに武将様や兵士がいなかったから、大騒ぎにならなかったのが救いなのか。


「す、みません…篠乃殿、大丈夫ですか!?」
「痛い、けど、そんなに深くは無いと思います…っ…いや、でも、…痛いかな…」
「本当に申し訳ありません…!処置しなくては雑菌が入ってしまいますね…。今、包帯など取ってきますから、篠乃殿はこちらにいてもらってよろしいですか?」
「は、い」


痛みに耐えながらの返事だったけど、弱音を吐けるわけがない。だから大人しく鍛錬場の隅で壁に寄りかかって待つことにした。張コウの朱雀爪は先に刃が付いているわけじゃないけれど、彼の素早い攻撃で刃も同然のような切れ味となるから、膝の少し上の部分がさっくりと切れてしまっている。中が見えるわけじゃないから貧血とはならないにしても、とにかく痛い。ましてや普段戦場に出たりしないから慣れていないのだ。泣くな泣くな、と、心の中で呪文を唱えていると、辺りが陰った。もう帰ってきたのだろうかと見上げると、予想とは違う人物が睨み降ろしていた。


「こんな所で張コウ殿と逢引ですの?曹丕様がいるのになんて事をしているのでしょうね」
「……甄、姫さん、私はそんなこと、」
「あら、そうかしら。色目を使っていたのではなくて?曹丕様から寵愛されていながら、本当に…腹が立ちますわ」


しばらく会っていなかった彼女を見ていたら、痛みとは別な寒気が襲ってきた。脚が痛くて立ち上がれない。色目なんて使ってない、私は子桓のためにやってたことなんだ、そう言いたいのに蛇に睨まれた蛙のような状態で、口がうまく開かない。背には壁があるからもう下がれない。そして、次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。バシッ、と鈍い音が遅れて聞こえてようやく私は甄姫に殴られたのだとわかる。ジリジリと焼けるような痛み。


「………貴女だって子桓が好きならば、もっと親しくなればいい、そう言いたいのでしょう…。でも…曹丕様は貴女しか見ていない、私のことなど見てくださらない…っ!貴女が消えてくだされば、いいと、何度も思いましたわ…」
「……ぁ…、…っ」
「本当に憎らしいですこと。大した魅力もない貴女の何がいいのでしょうね」


彼女の言ってることは尤もだと、思う。彼女への恐怖よりもそれを本当に子桓が思っていたらどうしよう、という恐ろしさにカタカタと知らない間に体が震えていた。結局護身術だって役に立てることが出来ない。それに、考えなくたって私よりも甄姫の方が魅力があるし、武術もわきまえているし、子桓の隣に立つに相応しい人なのだって、わかってる。でも、やっぱり、私は知らない間に子桓のこと好きになっていた。……それなのに何も言うことも行動を起こすことも出来ない自分がもどかしい。

また殴られる。いや、その鉄笛で切り裂かれると、感じた。見なくてもわかる。それを避けようとしないのはなぜなのか。自分の方に向かって何かが飛んでくるのが空気を切る音でわかった。――が、一向に痛みを感じない。何故だ、と目を開けて驚いた。


「ぎりぎり……間に合ったか、」
「…しか、ん…?」
「おい、甄姫。貴様何をしている」


私の顔面に当たる寸前だった手を横から掴んでいたのは子桓だった。その奥を見ると救急箱を片手に息を切らしている張コウもいた。ゾクりと子桓からの殺気を感じて――私に向けられているものではなかったけれど――止めなくては、と痛みを堪えて立った。今にも甄姫の腕を折ってしまいそうな気を感じたから。


「子桓、いけない!」
「…篠乃?」
「甄姫さんに、手を上げては駄目。私のことはいいから、」
「…曹丕殿、甄姫殿の事はこの張コウにお任せ下さい。貴方は篠乃殿の怪我の手当てをお願いします」
「ふん、わかった」


私は子桓の腕を掴んだまま、張コウに連れて行かれる甄姫を呆然と見送った。彼女にいつか殺されてしまうのではないかとも思ったけど、反面、彼女はこれからどうなるのだろうかという、不安が湧き上がる。怖いのに甄姫を心配するのは矛盾しているかもしれないけど。ふと、意識が遠のくような感覚に陥り、崩れ落ちそうになった。


「止血せねばいかんな。出血は多量ではないが、このままでは血が足りなくなる」
「……う、うん」


何か言いたそうな子桓は、ゆったりと私を座らせてから傷口の処置をしてくれた。





虚無の杯、満たしましょう:7

張コウの字ってどっちもあれですね、機種依存文字ですね…。言わせたかったのに!甄姫さんもう少し出てもらうかもしれません。ごめんなさい甄姫…!
20080626








第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!