人が良い幸村でも今回の我が儘は聞いてくれないだろう。いつもの些細な、一緒に城下へ行ってほしいとか一緒に寝てほしいとかそんな次元じゃない我が儘を、あたしは持て余している。戦に生きる人間だ。掲げる六紋銭がこんなにも憎く感じたことなんてなかっただろうし、これからも無い筈だった。 「ゆきむら、」 新緑に映える赤は幸村の色。武田の色。鮮血に染まっても判らないであろう赤が今はあたしの体を縛って離さない。もう蝉が鳴いている。規則的な鳴き声は、耳元で聴いている幸村の心音のように落ち着かせてはくれなかった。じわり、不安を煽るような。 「ゆきむら」 「苦しいですか?」 「ううん、違う」 的外れな質問をするのは少なくとも幸村が明日の戦に向かうという決意の表れだと思う。そしてあたしの大きな我が儘を言わせない、聞かない為の口実だとも。あたしの体をぎゅうと抱きしめて首筋に顔を埋める幸村は、戦の時のもののふなんて見る影もないほどに柔らかくて愛しい。蝉が鳴いている。幸村もこの蝉のように短い生涯を終えてしまうのかと考えてしまう自分が酷く恥ずかしい。 「なまえ殿、私は」 「いかないで」 「私は、行かねばなりません」 ほら、やはり我が儘は聞いてもらえなかった。やんわりと遮られた言葉の中にも揺るぎない信念を感じて何も言えなくなってしまう。幸村は狡い。こうやってあたしが泣くことしか出来ないのを判っていたんじゃないだろうか。頬を伝う涙に優しく触れる指ですら戦になんて送りたくない。そっと額に押し当てられる唇にはいつだってあたしの名前を呼んでいてほしい。 「なまえ殿」 「なまえ殿」 「なまえ殿」 戦なんかに、徳川になんて幸村を奪わせない。そう思うだけであたしには何も出来ない。ただひたすらに無事を祈って待つことしか出来ない。なんてちっぽけで無力な生き物なんだろう。幸村は必ず戻るなんてありふれた言葉であたしを安心させようとはしなかった。ただ蝉の鳴き声のように一定のリズムを刻む心臓の音が唯一安心させてくれる気がした。低く、染み渡るような幸村の声がもう一度、私は行かねばなりません。 「愛しています」 「、あたしも」 「我が儘を聞いてあげられなくて、申し訳ありません」 「ん、」 「だからその分、もう少しなまえ殿を抱きしめていてもいいですか?」 もう少しなんて言わないで、ずっとずっと抱きしめて戦場まで連れてって。蝉はあたしを煽るように鳴く。あたしも幸村を必死につなぎ止めようと泣く。蝉は幸村ではない、あたしの方だった。 (20090507) 真田幸村追悼. |