「にゃー にゃー にゃー!」
明らかに何か文句がありそうな猫を見つめながら、静雄は濡れた髪を雑に拭った。
床を濡らす水滴が足元に纏わりついてきた猫にかかったらしく、ジロリと睨まれる。
「…なんだってんだよ」
なんであの時拾ってきちまったんだろう…
そんな後悔が静雄の脳裏に浮かぶが、我が物顔で鳴き続ける猫には効果が無い。
さらに言うなら、目前の猫が全てを――そう、静雄の葛藤全てを――理解した上で深夜に鳴き続けるという近所の目を考慮した嫌がらせを実行してきている事が分かってしまった時点で後悔は倍増される。
(くそっ…!なんで猫なんだよ!)
いかにうざったく足に纏わりつかれようが、
いかに夜の静寂を壊すよう計算された声で鳴かれようが、
ふわっふわの毛並みと、鈴のような声は静雄の中で苛立ちには結びつかない。
それだけならともかく、気を抜くとその艶やかな毛並みを撫でてしまいそうになる己を心中で叱咤する。
(これはノミ蟲に間違いねぇ。ムカつく匂いだってするし、あんな人をバカにする目の猫なんて世界のどこ探したっていやしねぇ。臨也だ。確実に臨也だってのに…)
「…にゃあ?」
「……っ!」
平和島静雄は、折原臨也の事が嫌いだ。
この世の全ての人間と比較してもその順位が底辺から移動する事はない自信があったし、また移動する必要があるとも思えなかった。
それでも、動きを止めた静雄に対し猫――臨也が、不思議そうに首を傾げた瞬間。
可愛い、と思ってしまった自分に静雄はかつてない殺意を抱いた。
正確に言うならば、もう撫でてしまってもいいのではないかと思った自分へ――。
そう、平和島静雄…彼は、重度の猫好きであった。
(なぁんで、こんなヤツ拾ってきちまったかな…)
後悔は、後から悔いるからこそ、後悔である。
***
15分前
臨也は空腹から回避出来た満足感から、ベッドの上でウトウトとまどろんでいた。
自分の所持している寝具とは比べ物にならない程堅く、そして何より煙草臭いがまぁ我慢出来ない程ではない。大体匂いに関しては部屋全体がそうなので、とっくに麻痺してしまった。猫の嗅覚は人に比べて良いらしい。
勝手に枕を拝借して顔を乗せれば、男が飲んでいたビールの缶をペキリを潰す音がした。
臨也はその原因を考え、心中で嘲笑う。大嫌いな自分にプライベートな空間を侵略されて面白くないのだろう、と。
…実際は、憎らしいはずの仕草が外見と相まって意外と愛らしく見えてしまった事へのイラつきによる行動だったのだが、流石の臨也と言えども池袋最強と謳われる男がそれほどまで重度の猫好きだという推測には至らなかった。
(あー、でもホントに寝そうだよ。意外と安物のベッドでも寝れるんだ)
大変失礼な事を考えながら、臨也は無自覚のまま枕へ顔を擦りつけた。
鋭くなった嗅覚に届くのは、煙草と、微かな匂い。
(……シズちゃんの、匂い…)
あと少しで臨也が完全に眠りに落ちるという時、部屋の窓がガラリと開いた。快適な温度に整えられていた部屋が、いきなり真冬の空気に染まる。
(…は?何これ、嫌がらせ?!)
家主の顔を見れば、そこには至って普通の表情が乗っている。自然な仕草で空調の電源を切り、彼はぽつりと、こう言った。
「…風呂」
苛立ちも、ましてや悪意など何もない声。あくまで彼にとっては日常――習慣なのかもしれない。しれないが…
(信じられない。普通真冬にエアコン切って窓全開なんてする?それで風呂だとか考えられない。風呂上がりに外と同じ温度の部屋で過ごすわけ?いくらシズちゃんがバカでも風邪ひくんじゃないの?てか、俺がひきそうなんだけど!)
今の臨也にとって最高の居心地を提供してくれていたベッドは、残念な事に窓と隣接していた。冬の凛とした空気は心地良いが、それは眠りの世界に向かう直前に感じたいものではない。
(くそ…シズちゃんのバカ。本格的にバーカバーカ!)
毒づきながら、少しでも暖かい場所を探し回る。
それほど広くない(むしろ狭い)アパートの中をぐるぐると。
先程潜っていたベッド下のスペースなど、暖かい空気がまだ残っているかもしれないと思ったが、希望を抱いた分だけ悲しくなるという結果に終わった。全体的に寒過ぎる。
(確かに換気して空気は良くなったけど…これ風呂入ってるシズちゃんは良いとして、残された俺は地獄じゃん!!…ん、風呂?)
ぱちりと瞬きしてから、臨也はゆっくりと男が向かった方向へ足を向ける。
水音が聞こえるバスルーム。扉に凭れるように背をつければ、予想通りほのかな温もりをもたらしてくれた。
(…なんか、こんなちまっちく暖を取るとか…すっごく屈辱的なんだけど)
それでも、温もりは忘れかけていた睡眠良くを呼び起こす。ウトウト、ウトウト。臨也の意識が途切れかけた時――
ガツンッ
風呂のドアが、勢いよく開いた。
心地良い眠りから強制的に現実に戻された臨也の目に映ったのは…盗撮系のAVにだってここまで見事なアングルはないだろう、と思わせる光景だった。
「はぁ?オマエなんでこんな所にいるんだよ」
臨也にトラウマを植え付けかけた男は、ふてぶてしくそんな事を言ってくる。せめて照れるなりなんなりのリアクションを見せてくれたら――そう考えて、思わず想像した回転の早い脳を臨也は呪った。気色が悪過ぎる。
(よくそんな事が言えるよね。俺をこんな場所まで追い込んだ張本人が。ぶつけた頭も痛いし、大体早く服着てよ!)
にゃー にゃー にゃー!
文句のニュアンスを拾った男が、面倒だと言わんばかりの態度で濡れた髪を拭う。乱雑に拭われた髪から滴が零れ、それが臨也の毛並みを濡らす。
(……冷たいんだけど)
睨みあげれば、返ってきたのは溜息が一つ。
カチンときた臨也は、男の足に纏わりつきながら近辺の家に響くような声で鳴き続けた。
(ほら、猫の毛がくっつくのが嫌だったら早く身体拭いて服着てよ。俺だってこれ、自分が濡れるのかなり嫌なんだからね。あと窓締めて。寒い)
「…なんだってんだよ」
疲れ切った声が聞こえる。
けれど臨也の方が、もっと疲れている自信があった。
(あーあ、なんでこんなヤツの所にいるんだろ。窓から外行った方が良かったかも…)
それでも――窓から身を滑らせないのは、男が買ってきた袋から溢れんばかりの安物の猫缶を誰が消費するのかという同情から。
(もー、ほんっとシズちゃんは世話が焼けるよね)
やれやれ、と呟いた声は冷たい空気に溶けていく。
ふ、と見上げればそこには動きを停止した男が立っていた。何やら葛藤している表情を浮かべている(ちなみに今は腰にタオルを巻いている。が、臨也の位置からは丸見えだ。さりげなく目を逸らす事にはもう慣れた)
(…シズちゃん?)
…にゃあ?
「……っ!」
呼べば、あからさまに動揺を見せる男。
(……それ、さっき風呂から出た時に見たかった)
脳内の想像より、実物は結構楽しいかもしれない。
唇を歪めた臨也だったが、男の目には猫の髭が風に揺れたようにしか映らない。
(意外と、シズちゃんと暮らしてあげるのも楽しーかもね?)
安っぽいスプリングのベッドが、意外と寝心地が良いのと同じで。最悪の環境も、意外と――悪くないのかもしれない。
自分を主人だと認識させましょう
(相手も、自分が主人だと思っていますから)
2010.02.28
back