「…アンタ、誰だ?」
十分に睡眠を取ったからだろう。
その顔色は、昨晩までの蒼白さを微塵も残してはいなかった。
もっとも、彼にそれを告げたならこう答えるかもしれない「何かが残っているなら、その方がマシだ」と。けれど仮定はいつまでも立証される事はない。何故なら俺が、彼にその事実を告げるつもりが無いからだ。仮定は、いつまでも仮定のまま。俺の脳内を掠め、そして消えていく。
「………おい、聞いてんのか」
おやおや、ちょっと不機嫌になってきたね。
まぁ、これもお決まりの流れなんだけどね。朝から理不尽な暴力を振るわれたくはない。俺は素直に、うん、シズちゃん。と告げた。
「……シズちゃん?」
「そう。君は、シズちゃん。ははっ、覚えがない顔をしているね。そりゃあそうさ。俺がそう名付けただけだからね。だから、君はシズちゃん。別に名前があれば、そっちを名乗っても構わないよ。でも、俺は君の事をシズちゃんって呼ぶから。これ、決定」
「………アンタ、むかつくな」
「酷いなぁ。道端で倒れこんでいた君を親切に手当てして、なおかつ自分のベッドまで提供した俺に対してあんまりじゃないかい?」
「そう…なのか?」
手首に巻かれた包帯を見つめながら、シズちゃんが首を傾げる。
出鱈目な身体は、傷を残す事などしないけれど。それでも、血液が付着した包帯を証拠として受け入れてくれたようだった。
「あー…。その、ありがとな…えっと、」
「臨也。俺の名前は、折原臨也だよ。シズちゃん」
「いざや」
「うん」
シズちゃんが俺の名前をこんなに穏やかに呼ぶ事が、今まであっただろうか。
いいや。いつだってシズちゃんが俺の名を呼ぶ時は、感情に満ち溢れていた。怒りや、憎悪や、憤慨。似通ったそれらは、どれも違って、俺はそれが実に憎々しいと思っていた。まさか、こうして柔らかく名前を呼ばれて物足りなさを感じる日が来るなど思ってもいなかったのだ。
「臨也?」
「…それで、シズちゃん。助けてもらった恩を感じてるならさぁ、俺の仕事手伝ってくれない?勿論、一日だけでいいよ」
「……、構わねぇけど」
「そう?有難う」
にっこりと笑えば、シズちゃんはちょっと照れたようにそっぽを向く。
このやり取りをもう何度繰り返しただろうか。数える事には、もう飽きてしまった。
けれど、この作業によって"平和島静雄"は一日俺の物になる。どんなに危険な仕事も、俺の頭と彼の力があれば大抵スムーズに終わるのだと思えば、この程度の作業は労働にすらなりそうにない。
「………なぁ、臨也。前に、会った事…ないか?」
「あはは。シズちゃん何言ってるの。俺と君が出会ったのは昨日。話すのは今日が初めてだよ」
「そっか…。そう、だよな」
説明が遅れたけれど、シズちゃんはある日を境にフツウではなくなった。
まぁ、前からどう見てもフツウじゃなかったけどね。端的に言うならば、強靭な身体についていけなくなった脳が、記憶の保存を放棄するようになった。シズちゃんが記憶を保てるのは、せいぜい一日。早い日には夕方くらいに朝の事を忘れている事もあったし、時たま今日のように昨日の記憶の残滓を引き継ぐ事もある。
けれど、大抵は眠りにつくと共に全ての事を忘れてしまうようだった。
憎むべき俺の事は勿論、自分の名前や、その力が人間ではない化け物であるという事も。
その事に気付いた俺は、彼を自分の駒に出来ないかと画策し、そしてそれは現実になった。交渉以外では万能な駒は、実に使いやすい。元が単純で義理堅い分、最初に恩を売っておけば一日程度は何でも言う事を聞いてくれるのだから。
初めこそ、使い方を誤って部屋を壊滅させられたりしていたが、今ではもうシズちゃんの事は大抵なんでも巧く動かせる。俺がこんな行動をしたら助けてくれる、呆れる、愛想を尽かして出て行ってしまう。思いつく限りの行動は、なんでも、試した。
ある時は、俺の盾
ある時は、俺の切り札
ある時は、俺のオモチャ
そして、ある時は、俺の――
「ねぇ、シズちゃん」
「なんだ?」
「仕事はいいや。今日は休もう。だからさ、どっか行こうよ」
「…俺とか?」
「うん」
以前の俺達では、死んでも考えられなかった事。
「別に、構わねぇけど…」
それが、簡単に現実に変わっていく。
初めは、それこそ面白かった。なんでも思い通りに動かせるシズちゃん。俺だけを見る、険悪に染まっていない瞳。そんな彼を見るのが嬉しい自分に気付いた時、俺は自分が抱いていた本当の気持ちを知った。
「…ねぇ、キスしていい?」
「ああ。……っ?いや、何でだよ?!」
「なんとなく。したかったから。じゃあ、ほら!助けてあげたお礼。特別にキス一回でチャラにするからさぁ」
「嫌だ。殴るぞ手前」
「いいよ。シズちゃんは命の恩人を殴り飛ばすような人だって思うから」
「…………………キス以外だったら、いい」
「シズちゃんのケチー」
「っせぇ。ほら、どっか行くんだろ」
簡単に俺の手を取る君。
ねぇ、その体温に泣きそうになる馬鹿な俺が居る事に気付いているかい?
心の底で求めていた存在。
手に入った君が、君じゃないなんて。
「…ねぇ、シズちゃん。どっか行こう」
「? だから、そう言ってるだろ」
「ちょっと違うんだけど…。まぁ、いいよ。ああ、これもしかしてデートかな」
「っ…!」
握りしめられる手が痛い。
でも、痛い方が丁度良い。夢でも、なんでもない現実だと知る事が出来るから。
今のシズちゃんは、俺の盾であり、切り札であり、オモチャであり、恋人でもある。
思いつく限り、どんな事も試してきた。彼が嫌がるだろう事、思いつく限り全てを試した。
けれど、シズちゃんは元には戻らない。
どんなに俺を愛しても、どんなに俺を憎んでも、全て朝になれば忘れてしまう。
ただ、俺にだけそれらの記憶は確実に刻まれて。
不公平だ。世の中は初めから公平になんて出来ていないけれど、これほどの不公平も中々無いだろう。
「…………っ、いざ…や…!!」
「あはは!流石のシズちゃんでも、頸動脈を切るとハデに出血するねぇ」
だから俺は、一日の終わりにシズちゃんを殺そうとする。
どんなに俺を愛したシズちゃんでも、どんなに俺を憎んだシズちゃんでも関係ない。
俺を置いていこうとするのが、悪いんだ。
身体ばかり頑丈なシズちゃんが死んだ事は一度も無い。ああ、この言葉は矛盾しているか。シズちゃんが死ねばこのループは終わるはずなんだ。幸せで、虚しくて、最悪なこのループが。
殺せないならば、シズちゃんの前から俺が消えればいいのかもしれない。
けれど、彼に同じように接する誰かが居たら?こうして彼を独占する時間を自分以外の人間に与える程、俺は寛大ではない。シズちゃんがシズちゃんである限り、彼は彼の物で、その彼が自分が何者かを分からないというならば、彼について完璧に答えられる俺が、彼の持ち主であるべきなんだ。
「……臨也…なん、で…臨也」
今日は、俺を愛したシズちゃんが悲しそうな目で俺を見る。
可哀想だね、シズちゃん。
俺に愛されたばっかりに。
「――――泣く、な。バカ…
抱きしめられた温もりが、早く消えればいいと思っていて。
それでいて、いつまでも触れて居たいとも願っている。
「おやすみ、シズちゃん」
不公平で、最悪で、それでいて幸せなループ。
俺達が抜け出せるのは、いつになる?
傷口を丁寧に消毒して、真っ白な包帯をくるくると巻きつける。
血が飛んだシーツを新しくして、俺よりも大きい身体を横たえさせた。
胸に耳を当てれば、静かに聞こえてくる呼吸音。
よかった。これで、明日もシズちゃんに会える。シズちゃんの居る世界で、俺も生きていける。
ほら、また今日も
「おはよう、シズちゃん」
「…アンタ、誰だ?」
世界は残酷。
だからこそ、俺は生きている。
無限ループ/end
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