ボウルに卵を割り混ぜ、卵白と黄身が均等になった所に、牛乳と砂糖を加えしばし混ぜる。
綺麗なクリーム色になった事に満足してから、パンを浸す。
その間に弱火で熱していたフライパンにバターを落とせば、食欲をそそる音と共にあっけなく固形が液体へと変わっていく。料理は基本的に単純な作業の繰り返しだ。簡単な家庭料理では、尚の事。
手間を省いてはいけない。
何事にも、理由があって手間をかけるようになっているのだから。
フライパンに卵液が染み込んだパンを丁寧に並べながら、男はじっと完成を待った。
山となっている食器類はあとで家主に洗って貰えばいい(ちなみに内訳は、卵を割ったボウルが一つ。牛乳を計った計量カップが一つ。砂糖を計った器が一つに、それらを混ぜた大きいボウルが一つ。それからパンを切ったまな板が一つに、パン切り包丁が一つ。最後に途中で飲んだコーヒーのカップが一つ。そんな所だ)
「帰ってきて夕飯が出来てたら、驚くだろうなぁ」
彼にだって年に一度くらいは、疲れた顔をしていた旧知の友を労ってやりたいと思う日くらい存在する。大部分は善意での行動なのだ。だから、ピッキングで部屋に入り込もうが、勝手に冷蔵庫の食材を使用しようがそれらは大した問題にはならない。はずだ。
たっぷりの蜂蜜をかけ終わると同時に、ドアがガタリと音を立てた。
「おっかえりー、シズちゃん!」
「……………………なんだ、このすげぇ甘ったるい匂い」
家主である静雄が気になった事は三つだった。一つは玄関付近に落ちているピッキング道具一式を踏んでしまった事、一つは機嫌良く声を上げた男の後ろで、キッチンが散らかり放題になっている事、最後の一つは部屋中に充満する甘い香りであった。その中でも、一番理解が出来ないものについて彼は口にしたのだった。
「やさしー俺が、シズちゃんの為に夕飯を作ってあげました〜!あ、安心して?まだ毒は入ってないよ。俺ってほら、そんな卑怯な事するキャラじゃないからねぇ」
図々しい嘘の前に、否定すらも馬鹿馬鹿しくなった静雄は溜息でそれを流す。そして、心底嫌そうに、目の前に盛りつけられた黄金色のパンを見つめた。
「これが夕飯かよ…」
「え?美味いじゃん。シズちゃん嫌い?フレンチトースト」
「―――別に、嫌いじゃねぇけど」
「じゃあほら、食べて食べて!」
美しく皿に盛られたそれは、店で出されてもおかしくない出来栄えだった。
フォークを添えられテーブルに置かれたフレンチトーストの前に、やや強制的に座らされる。
「………いただきます」
「はい、どうぞ〜」
にこにこ、にこにこ。
そんな臨也を視界に入れなくてはいけない静雄は、ちょっと…いや、かなり背筋が泡立ったのだがとりあえず現状から逃げ出すにはこれを食べるしかないのだ。長年の経験で、こんな臨也には逆らうだけ無駄だと――逆らうよりも、ずっと効率的な対処法があると――知っている静雄は、大人しくフォークを口に運んだ。
口の中に広がる香ばしさが、蜂蜜と上品に絡み合う。
噛みしめると、例えようの無い歯ごたえと卵の味が比喩ではなく口から溢れだしそうになった。
材料は卵と牛乳と砂糖。それからパンに蜂蜜だ。それらが一体どうしたら、この様な不可思議な味になるのかが分からない。それは静雄にとっても、臨也にとっても同じであった。
「……………どう?」
「……………………。…水」
なんとか飲み込んだ静雄は、ただ一つ水を要求する。
すると臨也も慣れたもので、すでにスタンバイしていたそれを静雄に渡す。
「…これ以上丁寧に作れないって程、手を掛けたんだけどなぁ」
「見た目ばっか上手くなってんじゃねぇか。あと、散らかし過ぎだ。料理の途中で片付ける事をいい加減覚えろ」
「えー。だって、途中で違う事やったら、もっととんでもない味になるかもじゃん」
「…………手前、才能ねぇんだよ。諦めろ」
「諦めきれないからこうしてチャレンジしてるの!俺だって一人の夜にフレンチトーストが食べたくなる事だってあるんだよ?」
「店に行け。ファミレスでいいだろ」
「一人でファミレス、切なくない?」
そう言いながら臨也は自分がしていたエプロンを、静雄に差し出している。
その意図を悟った静雄は、しょうがねぇな、と呟いてそれを受け取る。
「何が食いてぇんだ」
「フレンチトースト。美味いやつ」
「――手前が作るやつよりは、誰が作っても美味いに決まってんだろ」
静雄が笑う。
似合わないくらい穏やかな頬笑みを前に、臨也は少し思考を止めた。
(…めっずらし)
不快ではなかったから、心の中で、ただそう呟く。
口に出せばこの穏やかさが消えてしまう。それは少しだけ、惜しい気がした。
***
静雄の料理は、臨也のそれに比べるとかなり適当だ。
臨也は、首を傾げながらじっとその動作を見つめていた。どうしてこんなに適当なのに、美味しい料理を作る事が出来るのか、そんな顔だ。
「ほら、出来たぞ」
「シズちゃん、端っこ焦げてる」
「うっせぇ。味は変わんねぇよ…多分」
「適当だなぁ」
苦笑いしながら、それでも臨也はフォークを手に取る。
そうして出来たてのフレンチトーストを口に運び「美味しい。何で?」と繰り返す。そんな時間が、静雄は嫌いではなかった。
年に一度、もしくは二度程のペースで臨也はこうした行動に出る事がある。
はじめこそ常にない態度に困惑したが、結局は誰かの作る手料理が食べたい、らしい。
自分が作っても美味くない。さぁ、作ってくれと言う態度には閉口するが、まぁ、道理が通っていると言われればそんな気もしてくるから不思議なものだ。
静雄の記憶が正しければ、去年は肉じゃが。その前は、お好み焼きだったような気がする。
「誰かの為に作れば、美味くなると思ったのにな」
皿の端を子ども染みた仕草でつつきながら、臨也がポツリと零す。
「…馬鹿か。そーゆーのは、好きな相手じゃなきゃ意味ねぇんだよ」
じゃあ、これが美味しいのはシズちゃんが俺を好きだから?
肉じゃがの時に叩いた軽口が臨也の口から出なかった事に、静雄は安堵する。なぜ安堵したかと聞かれれば、答える事は難しいが。
臨也の口には、大き過ぎたらしいパンをナイフで切りながら、少しずつ噛みしめている姿が見える。殺し合う事すら厭わない自分達に、この時間は酷く滑稽だ。
「―――甘い」
蜂蜜で濡れた唇が目に入る。臨也の紅い唇に光沢を与えるそれから目を離す為に、静雄は幾ばくかの時間を浪費する。沈黙、と呼ぶには短い間の後、彼の口から出たのは面倒そうな吐息であった。目前の相手が、自分の感情が、それら全てがただ面倒だ。
「…文句言うなら食うな、バカ」
「嫌だよ、俺のだもん。…でも、甘い」
甘い甘いと呟く臨也に、多少イラつきながらフォークを奪う。
口に運んだそれは、確かに胸が焼ける程甘かった。
ねぇ、気付いてる?
(甘いのは、君の方)
本当は、俺達、だけど。/end
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