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09.常盤木





背中と腰に触れる彼の手の体温。


ピッタリとくっついた胸から広がる彼の鼓動。


鼻腔をくすぐる彼の匂い。


耳元で聞こえる彼の吐息。


全てが私を狂わせる媚薬でしかなかった。



「ほ・・・っほぅ・・ちゃん?」

今だかつて、この様な至近距離で彼を感じた事があっただろうか?

幼い頃はよく手を繋いで寄り添い合って歩いた時期もあった。

どんどん大人になるにつれて、繋がれていた手は離れ寄り添うだけの関係になった。

傍に居ても、遠く感じる。

私の知らない「彼」がそこには居た。

無言でギュッと私の体を包んだままうんともすんとも動かない蓬生。

時折、背中と腰に回された手の平が開かれたり、閉じたりして私の体を撫でる。

その度に漏れる彼の吐息が耳元で聞こえる度、体の奥が痺れて何とも言えない感情が湧きあがってきて頭が上手く回らない。

この状況をどうすればいいのか。

その前に、蓬生はどうしてしまったのか。

問いかけたくて口を開けど咽の奥がつまって声が出ない。

彼の顔を覗こうと少し身動ぎすると、離さないと言わんばかりに抱きとめる腕に力が加わる。




みーちゃん、今どこにおるん。



みーちゃんどこにもおらんよ。



待てへん。今すぐ来てや。



来て・・・みーちゃん。



あんな弱弱しい蓬生の声を聞いたのは初めてだった。

私を求める声。

それは複雑でもあり、心地いい響きだった。

私を傍においてくれるの?

傍にいてもいいの?

こんな事されたら・・・・

期待、しちゃうんだから。

私はそっと空いていた両腕で優しく彼を包み込んだ。

愛しい。

愛しい。

溢れてしまいそうなその想いをそっと込めて。

私の手の平が蓬生の背中をそっと撫でた時、ピクリと彼の体が揺れた。

そして、今まできつく私を包んでいた腕が解かれ離れていった。

「ほうちゃん?」

離れたと同時に彼の瞳と目が合った。

「・・・あかんな。俺って、みーちゃんを困らせて。」

瞳が薄っすらと濡れ、儚げに微笑みながら独り言のように彼が囁く。

「ほうちゃんなら、いいよ。私もいっぱい困らせてるもん。」

つられて私もにっこり微笑む。

そして、優しく白く細い蓬生の手をとりギュっと握る。

「みーちゃんには敵わんわ。」

1つの長いすに向かい合うように座り、ギュウギュウ詰めになって大きく開いた彼の足の間にちょこんと私が座る格好。

居心地が悪いような、いいような。そんな格好。

蓬生は上半身を屈め、私の額に自分の額を合わせ上目使いで覗き込み。

「今日、榊君とどこいっとったの?」

「ち・・・近いよぅ!」

至近距離から見つめられて顔に熱が上がる。

距離をとろうとすれば、ギュッと掴んでいた手を握り返され離れられない。

「答えて。」

「お、お買い物!お買い物に行ったの!!」

恥ずかしさから視線を右往左往させながら私は早口で答えた。

「榊君と2人で?」

「う、うん・・・。」

「あかんな。如月君の側にずっとおるって約束せーへんかった?」

「だって、律君かなでちゃんの練習見に行くって用事ができたから!」

「一緒に行けばよかったんとちがう?」

「大地君、一緒に居てくれるって言ったから・・・。」

次々に出てくる蓬生の質問攻撃。

けっして攻めるような強い口調ではなく、穏やかに囁きかけるような声質ではあるのだが、至近距離から見つめられている事で嘘は全て見透かされてしまうそんなプレッシャーがあった。

「榊君とどこいっとったの?」

「も、元町通りでお買い物・・・あ!そうだ!!」

そこまで話して私はある事を思い出した。

「ほうちゃんにプレゼントがあるんだよ!」

「俺に?」

「うん!ちょっと待ってて、ポケットの中に・・・。」

キョトンとした表情の蓬生から離れ、私はベストについた左右のポケットを探る。

「あった!はい、プレゼント。」

ギュッと一度両手でそれを包み込み、蓬生の目の高さでそっと手の平を開き中の物を見せる。

「お守り?」

私の手の中には小ぶりな藤色のお守りがあった。

「必勝祈願だよ。千秋とね睦君の分も買ってきたんだよ。」

手に持っていたお守りをそっと蓬生の手の平に乗せる。

「大地君にね、神社に連れて行って貰って買ってきたの。ほうちゃん達が全国制覇できますようにって。」

にっこりと満面の笑顔を作って蓬生に言うと、少し気恥ずかしそうに彼の顔が赤らんだ。

「ほんま、みーちゃんには敵わんわ。お仕置きの1つや2つしよかと思っとったのに、してやられたわ。」

「お、お仕置き!?」

蓬生の発言に顔が引きつる。

つい最近、千秋から受けた「頭押しつぶしの刑」を思い出したからだ。

「でも、許したるわ。」

茶目っ気たっぷりに微笑む彼の表情に安堵のため息を零す私。

「でも「次」はないで。」

微笑みから不敵な笑みへと変えて彼がゆっくりと私の首筋に顔を埋めた。

そして、ちゅ、っという吸い付くような感触が首筋を伝う。

「〜〜っ!!!」

ビックリして固まる私をよそに、日中の暑さで汗ばんだ私の首筋に蓬生が歯を立てて噛み付いた。

「〜〜〜っ!!!!」

チクっとした痛みが全身を伝い反射的に体が大きく揺れる。

離れてしまわないよう、埋めている首とは反対に手を添え、噛み付いてできた赤い痕を優しく舌で舐めあげた。

ぬるりと滑らかな舌の感触に更に体がはねる。

「ほっ、ほうちゃん!!」

離れた蓬生にむかって顔を真っ赤にして抗議の声を上げる私。

「ふふ、ご馳走様。」

恥ずかしさと、驚きと、動揺で、私は瞳を潤ませ顔を真っ赤にしてポカポカと蓬生の胸を叩いた。

「そや、もう夕ご飯の時間とちがう?はよ食べに行こか。」

何事もなかったかのように余裕の表情で蓬生は立ち上がり、ラウンジへと続く引き戸を開け中へと消えてしまった。

「うぅ〜・・・。」

私は腰砕け状態で、立ち上がる事ができず、ジンジンと痛みが残る首筋に手を添えて既に真っ暗になってしまった夜空を仰ぐことしかできなかった。






「えらく上機嫌だな、蓬生。」

ラウンジへと入ると、千秋が1人雑誌を片手にテーブルに足を上げて椅子に座っていた。

彼の座る椅子の下には、いくつもの洋服店の物と思われる紙袋が置かれていた。

「みとったのとちがうの?」

しゃがみ、手前にあった紙袋の中身を覗き込むと、可愛らしい女性物の白いレースのスカートが見えた。

「あきらめろ、蓬生。」

「それができたら、こないに苦しまんよ。」

硬質に呟かれた千秋の言葉に蓬生がため息交じりに答える。

「これでわかったわ。」

そっと立ち上がった蓬生を目線で追う千秋。

「みちるが好きや。ほんまに。」

「蓬生。」

「わかっとる・・・わかっとるよ・・・!」

手の平にある藤色のお守りを見ながら蓬生が苦しげに言葉を吐いた。





それは臨海公園でのライブを終え、後片付けをしている時だった。

ブーブーとバイブの音を鳴らし蓬生の携帯が着信を知らせた。

画面を見ると、見覚えのない携帯番号がそこには刻まれていた。

誰からだろう。

そんな事を思いながら蓬生はその電話に出た。

「蓬生君か?」

携帯ごしに聞こえたその声は聞き覚えのあるもので、すぐに電話口の相手の顔が浮かんだ。

「ご無沙汰しております。おじさん。」

携帯を持つ手が震えた。

しっとりと汗が滲み、緊張が走る。

「みちるがそっちに行っているだろう。」

「はい・・。」

何故自分の携帯番号を知っている?

そんな疑問が過ぎったが、それよりもさすがというか愛しい娘の家出先を当然のように彼は知っていたのだ。

知っていながら家出当日ではなくこのタイミングで、しかも自分に連絡をしてきた、この意図はなんだ?

「今までみちると仲良くしてくれた君たちだ。だから教えておきたい事がある。」

じっくりと間をとり、静かに話す幼馴染の父親。

そして聞きたくも無い、衝撃的な現実を彼は蓬生に突きつけた。

「みちるには婚約した相手がいる。」

「・・・・・・・・・・え?」

「金輪際、みちるには近づかないで欲しい。」

「ま・・・待って下さい・・・!」

「だが、それでは君達も、そしてみちるも名残おしいだろう。そこで、猶予をやる。そっちにいる間、別れを惜しむといい。」

「・・・・どういう意味ですか?」

手先の震えが止まらなかった。

蓬生の様子に気付いた千秋がどうしたのか、と側に近づいてきた。

「それくらい自分で考えたまえ。それと、この事はみちるには話すなよ。」

苛立たしげにそう言うとプツリと通話が切れたのだった。





ほうちゃんなら、いいよ。私もいっぱい困らせてるもん。


必勝祈願!


ほうちゃんが全国大会制覇できますようにって。


ほうちゃん。






あの愛しい温もりを失いたくなかった。



あきゅろす。
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