愛情の表現の仕方・後編 その1 その日、ジェイドは自身がやけに急いでいるような気がしていた。退勤のスキャンを忘れかけたり、店を出てから仕事のやり残しを思い出したり、買い物の最中に牛肉と間違えて豚肉を手に取っていたり。幼馴染が見たら爆笑ものである自身の失態に、ジェイドは溜息を吐かざるを得なかったが、しかし、それでもジェイドの気分は悪くはならない。自身でも驚くほどに、今日という日を待ち望んでいたのだ。プレゼントを購入し、予約しておいたケーキも引き取った。誕生日を祝う準備は、万全である。そう思っていても早足になってしまうのは、早くルークの驚く顔が見たいからだろうか。それとも。 「(…いけませんねぇ、歳を取ると、どうも考えが悪い方、悪い方へと転がってしまって。)」 ジェイドは一瞬脳裏を過った考えを一蹴した。今はルークの誕生日をいかに盛大にするか、それだけを考えていればいいのだ。そう、思っていた。玄関のドアノブに手をかけるまでは。がちゃりと音を立てて侵入者を拒む扉。ジェイドは嫌な汗が背を流れるのを感じながら、鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ゆっくりと回せば、鍵がかかっていたことが思い違いではないことがわかった。 「…ルーク?」 扉を開けた先は真っ暗闇。遠くに見えるベランダには、暗闇の中にはためく洗濯物があった。 「ルーク!いるなら返事をしてください!」 かける声は室内に反響するばかりで、目的の人物は一向に見つからない。 「ルーク、お願いですから…。」 自分でも情けない声だと思うが、なりふりは構っていられなかった。嫌な予感が、当たってしまったのだから。全ての室内を見て回った後、ジェイドは携帯を取り出した。ルークの番号をアドレス帳から出し通話ボタンを押すが、電源が切られているというアナウンスが聞こえるだけであった。 「ルーク…。」 ただ名を呼ぶことしかできないことが、もどかしい。一時間ほど待てば、もしかしたらひょっこり帰ってくるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら待つことが、果たして自身にできるだろうか。いや、できない。一緒に暮らし始めてから、ルークが一人で出かける際に連絡を入れなかったことは一度たりともなかった。確かに彼は、一緒に暮らしてみて初めて、めんどくさがりだったり、実は寂しがり屋だったりと、沢山のルークをジェイドは知った。しかし、それでも言われたことはちゃんと守り、人の事を心配できる、優しい子であった。ルークが好きだということを、何度も確認できるほどに。ジェイドは嫌な方、嫌な方へと転がっていく自身の思考を一蹴し、落ち着こうと大きく息を吸い、そして吐いた。再度携帯を見て、今度は別の人物の連絡先をアドレス帳から出した。古い付き合いである、幼馴染へかけるために。 「何?ルークがいなくなった!?」 ピオニーは暇だから、という理由で幼馴染の一人であるディストを酒飲みに付き合わせていた。先程までピオニーの一方的な仕事上の愚痴を延々と聞かされていたディストも、隣で緊迫した会話が繰り広げられたことにより飲もうとしていたグラスをテーブルへと戻した。 「…ああ、わかった。とにかくそっちへ行こう。」 携帯をぱちりと閉じたピオニーは大きく息を吐き、両手で頭を抱え込んだ。テーブルに思い切り両肘が付かれた為に、置かれていた皿ががちゃがちゃと音を立てた。ディストはその様子を見ながら、テーブルの端に置かれていた勘定書を手に取った。カウンターで他の客の相手をしていたマスターは近付いてきたディストに気付き、客との会話を中断し勘定書を受け取った。 「毎度ありがとうございます。…ところで。」 「…なんですか?」 「面白い話が聞けましたよ。何でも、ケテルブルク店に毎日のように来ていた客がいた、とか。」 ディストは財布から札を取り出しながら、あくまで平然とした態度をとった。 「ほう、それはそれは。」 「わざわざ遠くから通っているという話ですから、ケテルブルク店はさぞかし接客が良いのでしょうね。」 「全ては社長と、店内で働く店員のおかげですよ。」 マスターからお釣りを貰い、ディストはカウンターを後にした。テーブル席では一連の話を聞いていたピオニーが険しい表情をしていた。ルークのことが心配なのだろう。それはどういった意味を含んでいるのだろうかと常々気になっていたディストだったが、あえてそれには触れないでおいた。その問題は、今解決しなければいけないものではない。 「サフィール、場所は割り出せそうか?」 「ええ、良い情報を頂けましたから。あと、その名前で呼ぶのは止めてください。」 眼鏡のブリッジを押し上げ、ディストは笑みを浮かべた。その脳内では既に、持ちうる全ての情報を使ってピオニーの望む結果を考えているのだろう。ディストの様子に満足したピオニーは大きく息を吐き、立ちあがった。 「アスラン、世話になったな。」 声をかけられた青年はにこりと優しげな笑みを浮かべた。バー・MGのマスター、アスラン・フリングス。ピオニーが自身の秘書にならないかと何度も声をかけたが、その誘いを頑なに拒んだ人物として、一部では有名である。 「行くぞ、サフィール。」 「ええ。」 二人は店を後にし、ジェイドの自宅へと向かった。 目を開けると、そこは見慣れぬ天井であった。今度は本当に見たことがない。ぼんやりとそんなことを考えながら、ルークは自身の意識を少しずつ覚醒させていく。そっと辺りを見渡すと、そこには信じられない光景があった。 「え…?」 壁一面に張られているのは、写真。大きく拡大されたものから小さなものまで、天井以外にびっしりと貼られたその写真には、必ず赤があった。ルークの、姿が。 「あぁ、目が覚めたんだ。」 声のする方に目を向ければ、少し小太りな男が一人。パソコンの前に座り、右手にはナイフが握られている。ドラマでしか見ないような光景に、ルークの身体は強張った。自身が最悪の状況下にあることを、悟った。 「な、なんなんだよ、お前…。」 「あれ、僕のこと、覚えてないんだ。あんなに、何度も、逢いに行ったのに。」 にたり、と笑んだその表情。忘れるはずもない。マンションのエレベーターのドア越しに見えたその表情、忘れることができた日が一度でもあっただろうか。 「お、まえ…。俺の、こ、と…。」 「思いだしてくれた?何度もキミをこの手にしようと思ったことか…。だけどっ、」 だんっ、と大きな音を立てたのはパソコンデスク。ごろりと床に落ちたカップから、コーヒーが零れた。叩きつけられた握り拳が、パソコンにテープで貼りつけられた一枚の写真へと伸びる。 「こいつが、何度も、邪魔をする。」 ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、男はその写真をぐしゃりと握りつぶした。ルークは男から離れていたものの、その写真に写っていた人物を一瞬だけ捉える事ができた。柔らく温かな蜂蜜色、そして初めて見るものを驚かす、紅。ジェイドである。 「こいつが、こいつが邪魔を、するからっ!」 男は写真を握る手を、再度デスクへと叩きつける。何度も、何度も。そして、気がすんだのか、振り上げた手をゆっくりと落とし、握り拳をほどいた。その拍子に落ちた写真が、床を濡らしているコーヒーの上へと落ちた。 「でも、もういいんだ。もうすぐキミは、僕のものになるんだから。」 「っ…。」 立ちあがり、男が近付いてきた。一歩、また一歩。少しずつ近くなる距離にルークはこの場から離れられないかと身体をよじるが、手足がベッドの端にくくりつけられ状態であるために、どうすることもできない。しかし、どこからか白い手が伸びる。 「待て。先に例の物を渡してもらおう。」 伸ばされた手から辿っていけば、一人の女性。頭上でまとめあげた金色の髪が揺らめくと、まるで太陽のようにきらきらと輝く。薄暗い部屋の中でも、光を失わない、美しい髪の女性であった。 「(コイツ…どこかで。)」 忘れてしまおうと、思いだすことの殆どなかった記憶の中に、その女性はいた。見たのは一度きり。それも一瞬。そこまでわかっていながら、誰かを思い出すことができない。 「あぁ、わかってるよ。ほら、これだろ。」 「…この鍵で間違いないのだな。」 「あっ!それは俺のだ、やめろっ!」 男が女性に手渡したのは、鍵。それはルークが先程自室で見つけたものである。やっと思いだした、大切な、小さな小さな、鍵。いつの間にかキーホルダーから外され、一つになってしまっていた。 「それっ、は!駄目、だ!」 「安心しろ。悪いようにはしない。」 騒ぎ出したルークをなだめるかのように、女性が振りかえった。鋭い瞳がルークを見つめた瞬間、ルークは違和感を感じた。何故ならその視線には、期待と憐れみが含まれていたから。何故そう感じたのかもわからないが、ただそうとしか言いようのない不思議な視線にルークは戸惑った。その戸惑っている瞬間に、女性は部屋の扉に手をかけた。 「協力、感謝する。後で使いの者が来るから、報酬はその者から受け取りなさい。」 「あぁ、わかった。」 男が返事をすると、女性は部屋を出て行った。助けてはくれないかと微かな期待を抱いたが、それも無駄であった。絶望に苛まれているルークを見た男は、笑みを深くした。 「さぁ、これで邪魔者はいなくなった。」 「やっ、やめ、ろっ!く、くるなっ!」 「大丈夫、痛いことは何もないから。あの紅い目の男から、僕はキミを、救ってあげたんだ。」 ポケットからナイフを取り出した男は、ルークの上半身に手を伸ばした。Tシャツを掴み、襟元にナイフの先端をいれる。すうっ、と小気味のいい音を立てて引き裂かれたTシャツ。露わになるルークの白い肌に、うっとりとした表情の男の顔が近付いた。 「あぁ、まだ綺麗なままだね。良かった。あの男に汚されてないかと、ずっと心配だったんだ。」 「ひっ、や、やめっ、て!」 ルークの悲痛な懇願も空しく、男の舌がルークの肌に触れた。ざらりとした感触が胸の突起を包み込むが、湧き上がるのは嫌悪感だけである。 「やだっ…、やだ、じぇーど、じぇーど!」 まるで泣きわめくかのように抵抗し始めたルークから離れた男は、冷たい目をルークへと向けた。そして、ナイフを持っていない手で、ルークの頬を叩いた。乾いた音が響き、次いで響いたのは、男の荒い息と怒声。 「黙れっ!僕の前であの男の名を呼ぶなっ!!」 あまりの突然の出来事に、ルークの思考は止まった。見れば、顔を真っ赤にした男がものすごい形相でこちらを睨んでいた。 「キミを好きにしていいのは、僕だけだ。僕だけなんだ!あんな奴に、渡すものかっ!」 歪んだ愛情。叩かれた頬が、じんわりと熱くなる。痛みに反応し、瞳からは涙が零れた。どうして自分がこんな目に遭うのだろう。ただ、幸せに暮らしたかっただけなのに。それともこれは、罰なのだろうか。幸せになりたいと願った、罰なのだろうか。ジェイドとの暮らしの居心地の良さに慣れてしまい、過去を忘れてしまったせいだろうか。なんにせよ、ジェイドが苦しむよりはよっぽどマシである。 「ジェイ…ド…。」 ぎゅっと目を瞑れば、浮かび上がるのは名を呼んだ男の顔。初めはただの怖い上司だった。いつの日からか、やけに自分に構うようになり、それが辛くて辛くて、何度も仕事を辞めようかとも思った。しかし、それはある日を境に変わった。一緒に暮らすようになってから、ジェイドの優しさに、本心に、少しずつ触れ、そして彼を知った。一緒にいることがこれほど幸せだと思わせてくれるのは、きっと後にも先にもジェイドだけなのだろう。 「(好きだった…大好きだった。)」 ジェイドとの暮らしが、一緒にいる時間が、仕事をすることが。何よりも、ジェイドが。そのことにやっと気付けたのが、何故今なのだろう。いつの間にか行為を再開していた男の舌が身体中を這っていくのを気持ち悪く感じながら、せめてその様子を見ないでおこうと、更に強く目を瞑った。 [戻る] |