04
頭のうえでゆっくりと、虎が舌なめずりをするのがわかった。落雷がふたりを白く照らし、雨音を響かせる。そのほんのわずかな時間、モニカはぼんやりと思った。
式から逃げたのは、やはり間違いだったのだろうか。あのままおとなしく馬車に身を寄せ、迎えを待つ道もあったはずだ。
農夫のもとでつまらない暮らしを送ったほうが、ずっと幸せだったかもしれない。それを選ばなかったのは、他ならぬ自分だ。
どちらにしろ、もうモニカには帰るところなどなかった。
虎がまさに襲いかかるその瞬間、今度こそ、彼女は死を覚悟した。
そのとき、ふわりと鼻先を、冷たいもやのようなものがかすめた。冷えた空気が渦を巻き、モニカの目の前に滑り込む。
闇に淡く光るそれは、一瞬で少女と虎の間に銀の壁を作った。厚いもやの向こうで、虎が目をむいて叫んだ。くぐもった吼え声を聞いた直後、腕を強く引っぱられた。
力の抜けていた身体はたやすく傾き、モニカはとっさに、足を踏み出した。
すんでのところで踏みとどまったものの、腕の力は緩まない。そのままぐいぐい引いていく。
一歩一歩、よろめきながら、やがて歩みは駆け足になった。
気がつくと、モニカは廊下を走っていた。自分の力ではない。片腕を差し出して転げるように走る姿は、誰かに腕を引かれているようだ。
ふりかえると、はるか遠くで虎が茫然としているのが見えた。
我にかえり、吼えた声が石の回廊へ響き渡る。恐怖ですくみあがったモニカの耳に、小さな声がささやいた。
「とまらないで、そのまま走って」
モニカはぎょっとして周りを見回した。はっきりと、おびえた少女の声が聞こえた。
しかし自分のほかに、誰の姿も見あたらない。振り向こうとすると、声はそれをいさめた。
「だめ。前だけを見て。
次の角を曲がって、いちばん手前の部屋に入るのよ」
すぐ後ろから、獣の気配が迫ってくる。モニカは懸命に走り、言われたとおり角を曲がって、いちばん最初の部屋に飛び込んだ。
◆ ◆
そこは小さな物置だった。部屋の中に入ると、モニカは後ろ手にドアを閉め、息をつめて待った。木の板一枚隔てた向こうで、虎が吼えている。時折、何かを叩き割るような激しい音が響き渡った。
が、やがてそれは、どんどん向こうへ遠ざかっていった。
しばらく経った後、モニカは床にふらふらと座り込んだ。安心して、疲労がどっと押し寄せる。
助かった。
自分は助かったのだ。あの猛獣の牙から、逃れることができた。
彼女のおかげだ、と、モニカは思った。ここまで導いてくれた、あの声の主にお礼が言いたい。
いま生きていられるのは彼女のおかげだ。
幸い、命の恩人はすぐ目の前に現れた。
半透明の少女の霊が、そこに立っていた。
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