アシュヴィン×千尋






 長いこと歩いた為に上昇した体温の所為で掻いてきた汗とは別の、妙に冷たい汗が額を流れたのを千尋は切々と感じ取っていた。

 「皇后陛下、お疲れになりましたか? 歩みが少し遅くなられていますが」
 「う、ううん平気よ。心配してくれてありがとう」

 自分の後ろを歩く常世の兵士を振り返って笑顔を向ければ、気遣いに顔を曇らせていた兵士は安堵したように表情を綻ばせた。

 千尋はまたくるりと前を向き、しかし兵士に向けた表情とは逆で眉間に皺を寄せる。

 (どうしよう…足、段々と痛みがひどくなってきている)

 ズキズキと痛みを訴えてきているのは右の足首だ。先ほど地上に盛り上がった太い木の根で躓いてしまったのだが、そのときに体勢を整えようと踏ん張ったときに変に捻ったらしい。すぐに痛みは奔らなかったが、時間が経つ毎に血流と共に身体全体に広がるようになった痛みはひどくなっていくばかりだ。

 (歩く速度が遅くなっていることも後ろの兵が気付き始めてる…バレるのも時間の問題ね)

 足手まといになりたくないのに、千尋は奥歯をきつく噛み締め視線を前に投げる。何十人という護衛の兵士の背中が目に映るが、千尋が見ているのはその先頭を歩いているであろう夫の逞しい後ろ姿だ。

 ――アシュヴィンが常世の辺境に位置する村々の視察に出掛けると聞いたのは出発の三日前だった。ちょうど千尋が長く掛かっていた中つ国側の公務を終えて常世へ帰国した日だった。旅程の予定は三ヶ月。しかし途中馬も通れない山道を歩くことになる為延びる可能性もあるかもしれないとのことだった。

 最近、千尋とアシュヴィンは互いの国の仕事の関係ですれ違いが多かった。共に居られる時間は夜寝るときだけという日が幾日も、夜さえも共に居られない日が数週間、数ヶ月と続くことも稀ではなかった。
 そんな中、やっと中つ国の仕事を終わらせて、しばらくはゆっくり出来そうな時間が持てそうだったのだ。顔には出さないよう努めたが千尋の落胆は相当なものだった。

 だから、今回千尋は珍しく我儘を言ったのだ。「迷惑はかけないから一緒についていきたい」と。

 最初は渋ったアシュヴィンだったが、千尋が粘ると最後には諾の返事をしてくれた。

 ――だからこそ、足手まといなんてなりたくないのに。千尋は自身の油断が招いた現在の事態に内心で臍を噛んだ。

 道程は、出発当初に一番の難所と予想された山間部の山道に入っていた。険しくはないがしかし踏み鳴らしただけで決して整っているとも言いがたい、自然のままの山道だ。「これらの道の舗装もこれからの課題だな」「そうね。足腰の強い男の人や若い人はともかく、子供やお年寄り、女性には少しきつい道だもの」「お前を気をつけろよ。そこら辺に石やら何やら、躓きそうなものが転がっているからな」「分かっているわ」そんなことを冗談半分に言いながらアシュヴィンの隣りを歩いていた。だからこそ、木根に躓いたのは甘さ故、もしくは浮かれての故としか言いようがなかった。

 痛みが強くなりアシュヴィンの歩みについていけなくなると、「山の景色を楽しみたいから少しゆっくり歩くわ」と苦しくない言い訳をして列の後尾についたが、それもまた辛くなってきている。このままでは誰かに足の負傷がバレてしまう。

 追いつかなければ。今は見えない、赤い髪が翻るあの背中まで。
 千尋は歯を食いしばり、足腰にぐっと力を入れた。

 「――陛下、少しお待ち下さい」

 そのとき、後ろから肩をがしっと掴まれた。反射で振り返れば、そこには列の最後尾を歩いているはずのリブが、実に穏やかな――しかしどこか有無を言わせない笑顔で立っていた。

 千尋のこめかみに暑さでもない痛みでもない冷や汗が伝う。

 「な、なあに? リブ」
 「足首…右ですか? 傷めていらっしゃいますね」

 「治療しますので少し止まって頂けますか?」そう言ってにっこり微笑む。

 まさか最後尾、千尋の背中が見えるか見えないかの位置にいるリブにバレるとは思っていなかった千尋は呆然と立ち尽くす。その間にリブは近くの兵士に「先頭の皇に歩みを止めて頂くよう伝令を」と言伝を頼む。命令された兵士はすぐに駆け出していった。

 「さあ、陛下。そこの岩に腰をお掛け下さい」
 「ど、どうして分かったの? 私が足を傷めてるって」
 「分からないはずがありません。そのようにお辛そうなのを我慢して歩いていらっしゃれば」

 「さあ」と手をとられながらもう一度促され、千尋はおずおずと近くに無造作に転がっていた岩に腰掛ける。リブはすぐに千尋の足元に跪き、慎重な手つきで千尋の足首を検分した。

 「ああ、やはり少し腫れていますね。幸い骨は折っていないようですが、歩くにはお辛いでしょう?」
 「そうね…少し」
 「大分、の間違いでは?」

 リブは千尋を見上げて苦笑する。千尋はうっと言葉に詰まる。皇の側近中の側近はお見通しとでも言うようにクスクスと可笑しげに笑った。

 「何だ千尋。お前やはり足をどうにかしていたのか」

 そのとき頭上から降ってきた声に千尋ははっと顔を上げる。

 いつの間に近付いてきていたのか、列の先頭を歩いていたはずのアシュヴィンがリブの背後から千尋の足元を覗き込んできていた。

 「あ、アシュヴィン…」
 「やはり皇もお気づきでしたか」
 「ああ。これまで景観の良い場所はいくらでもあったのに、こんな木々ばかりが茂る場所でいきなり景色を見たいから後ろを歩くと言い出したからな。何かあるとは思ったんだが、我が細君は俺が言っても聞く耳を持たぬところがあるからな。しばらく様子を見ようと許可したが…ああ腫れているな。これでは歩けんだろう」

 そんなに早々に足の具合を気付かれていたのかと千尋はかあと羞恥に頬を赤らめる。
 
 そんな千尋の様子をちらりと盗み見たアシュヴィンは密かに唇の端を持ち上げる。

 「どれ、それならば俺が担ぐか」
 「え…? あ、アシュヴィン?!」

 千尋は一瞬短く叫んだ。と言うのもアシュヴィンの腕が膝裏に回ったかと思うとそのまま抱き上げられたからだ。一瞬体勢があやふやになるものの、咄嗟にアシュヴィンの首に回した自身の腕と背中を支えるアシュヴィンの逞しい腕ですぐに安定する。

 「おや、皇。役得ですね」
 「だろう? 夫の特権だ」

 ニヤリと微笑ったアシュヴィンは外套(マント)を翻しながら「先を急ぐぞ、リブ」と背中越しに声を掛け、人を一人抱えているとは思えない足取りで颯爽と列の先頭に踊り出る。途中「皇后陛下! 如何されたのですか!?」と事情を知らない兵士に声を掛けられたが、千尋は大丈夫の意味を込めて微笑み返すことしか出来なかった。何せ大層恥ずかしかったので。

 しばらく無言で歩いていたアシュヴィンに、千尋はおずおずと声を掛けた。

 「ごめんなさいアシュヴィン…結局迷惑を掛けてしまったわね」
 「迷惑、ではないだろう?」
 「……心配かけてごめんなさい」
 「そう思うなら大人しく俺に抱かれていろ。全く…俺の妻は、奔放にさせていれば無理や無茶をする、閉じ込めておけば途端に萎れてしまう。扱い辛い花だな」
 
 呆れられたと思った千尋は咄嗟に顔を上げるが、「まあそこがいいんだが」と目の当たりにしたアシュヴィンの優しげな笑みに鼓動を高鳴らせる。たちまちに頬に熱が上ったのを悟って顔を伏せるが遅かったようで、降ってきた笑声は優しくもどこか意地悪げだった。
 
 「…扱い辛くなんかないわ。私はとっても単純よ。だって、アシュヴィンが傍に居てくれれば何も要らないもの」
 「ほう、嬉しいことを言ってくれる」

 意趣返しのつもりが相手を喜ばせたようで、千尋はこの後顔中にアシュヴィンの唇を受けることになった。

 






好きで好きで
好きで好きで
好きなんです







 「…リブ宰相。我々が目のやりどころに困るので、皇にリブ宰相から一言言って頂けませんか」
 「うーん……私が何を言っても無理でしょうねぇ。言って聞かないのは皇后陛下だけではないですから」

 仲睦まじい常世の王夫妻を護衛する兵士達は、二人に気付かれないようにひっそりと、たが重い溜息を道すがらに落としていったとか。






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公衆の面前でイチャイチャなバカップル常世夫妻。
てか我らが石田てんてーはやっぱりキャラソンは歌ってくれないのね…。てなわけでアシュのみタイトルはお題サイトさんからです。




お題提供:ユグドラシル
『口説き文句で10人斬り』より



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